BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20131006 天幕渋さ船

 
禁酒4日目。禁ツイ2日目。
 
渋さ知らズオーケストラ『天幕渋さ船〜龍轍MANDARA』。1Fなかほどの指定席で観る。立ったり座ったり歌ったり踊ったりと自由にできたこともあり、終始リラックスして楽しく四時間を過ごした。桟敷席はもっと楽しそうだったけど見るからに体力が要りそう。桟敷席にいた二十歳くらいの友人は、しかしケロリとした顔で、夢のような四時間でした、と言っていた。
 
とにかく、何かを強烈に浴び続けた感があって、赤フンに玄界灘の法被姿の渡部真一が最初に宣言したように、「つくった作品をお見せするのではありません、この場で一緒につくりましょう!」という感じが社交辞令ではなくマジであったと思うし、びしびし伝わってもきたのだ。ダンドリストの不破大輔は、一方では指揮者然として振る舞うことでこの大所帯を見事に動かしつつも、同時に、あそこに座ってただ何かを待っている釣り人みたいでもあった。
 
ほんとに愚直な感想だなあと自分でも思うけど、巨大な龍の登場には、わあーすごい、生きてるみたい……と息を呑んで見つめるばかりだったし、あるいはエアリアルのゆくえを固唾を呑んで見守ったりと、確かに夢のような素敵な四時間だったのだ。ひたすら音を浴びながら童心に返ったような心持ち。ではこのスペクタクルは、サーカスと何が違うのか? 違わないのかもしれない。サーカスは素晴らしい。
 
いつも劇評で大体そんなことばっかり書いているのだが、わたしは基本的に「共感」や「熱狂」や「耽溺」よりも、「違和感」や「クール」や「覚醒」のほうを愛する者なのであって、だから前者だけに傾くようなオーバードーズ気味のもの、もしくは「みんなで〜」とか称するファナティックで全体主義的なもの、あるいは静かな語り口と見せながらも実際には「ほら、あなたもわかるでしょう?」とみずからの単細胞的なイデオロギーを強要してくるものなどが苦手なのだが、少なくとも今回の渋さ知らズには、耽溺と覚醒の両岸を行き来するような感覚があった。つまり自由があった、ということだ。渋さが持っている混沌とした雑種性や多様性のようなものが、観客席での様々なあり方を許容するような一種の「隙」を生み出しているからかもしれない。カオティックな中にも実は秩序というか美しさがある。それは音楽の力でもあるし、だけどひとつのハーモニーを奏でるというよりは常にノイズ含みのアンサンブルであり、常に逸脱するものを孕んでいるのだ。決まっている段取りが当然ありながらも、演者それぞれに委ねられている部分がある。即興性。言い換えればそれは、それなりに長い年月を、音楽や芸術、芸能と共に生き抜いてきたからこその、思想の複雑さ(?)や懐の深さでもあるのではないか。めくるめくスタッフワークや各種ダンスやアニメーションを見ながら、芸能の力ってすごい、と感嘆したのである。それはもちろん技術もさることながら、なぜかこんなことをやってしまわずにはいられない人間の業のようなものを感じたからかもしれない。
 
 
冒頭のスターリン246も凄かった。遠藤ミチロウ、1950年生まれやで……。彼が登場し、それにいきなりフルスロットルで応える観客を見た時、何か違和感をおぼえたのは、きっとここが「劇場」という箱だからであろう。「劇場」にありがちな、腕組みをして演劇を観る態度とは明らかに異なるものがそこにはあった。どちらが良い悪いと言いたいのではない。ただ何か、「劇場」における観劇の常識のようなものが、彼らによって破砕されたような気がしたのである。これはもちろんただの勝手な憶測でしかないのだけども、おそらく彼らはふだん演劇をあまり、もしくは、まったく観ないのではないかと思う。なぜなら彼らは、「劇場」というものが要請する態度(アフォーダンス)にほとんど影響されていない。彼らにとっておそらく重要なのは、ただそこに遠藤ミチロウという伝説的なミュージシャンがいるということであり、ただそこに音楽が降臨すること、それだけではないか。そういえば……と思い出すのだが、1F指定席後方から花道に歩み寄っていって遠藤を抱擁した(たぶん)女性がいた。印象的だったのは、彼女が走り寄っていくのではなく、さもそれが自分の当然の権利であるかのように、ゆっくりと歩いていって事を成し遂げたということだ。突発的な熱狂というより、それは確信犯的な自信を持った行為にも思えた。まったくそのような行為を推奨するわけではないが、あくまでわたしには、それは彼女の独りよがりな蛮行というよりも、何かこの場にささやかな華を添える行為のようにも見えたのである。いささか大げさな言い方に聞こえるかもしれないが、それは、仲間の遺体に花を捧げたというネアンデルタール人の姿をわたしに思い起こさせた。では今の「演劇」で、あのような出来事は許されるだろうか。あのような出来事は起こりうるだろうか。けっしてゼロではない。とにかくひとつ言えることは、この日のKAATはそうしたいっさいがっさいを許容する懐の深さを見せてくれた、ということである。