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BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130926 番台の婆さん

diary

 

ささやかに部屋の片付けをしたり、束の間の晴れ間に布団を干したり。そして郵便物を郵便局に届けにいったのだが、考えてみれば別の町にもやはり郵便局はあるのだから、どうせならそっちに行ってみればよかったと思った。きっと同じようなATMの機械音が鳴っているんだろうけれど、とはいえそこにいる職員も客も見慣れない顔だろうし、もしかしたら誰かと突然の恋に落ちるなんてこともあるのかもしれない。と書いてはみたものの、別に固定した関係が欲しいわけでは必ずしもなくて、いわゆる彼氏彼女の関係から遠ざかって早幾年月、きっとわたしにはこの状態が割合にしっくりくるのだろうと感じてもいる。ひとりでいる時間……や、ひとりでいる、っていうのはどういう意味なのか。もしかしたら今が人生で最も愛を身に浴びている時期かもしれなくて、だからといって未来に悲観しているわけでもない。いやおうなく時間は経過していくのだし、その時に自分がどのような人物であり、何を考えているかなんてことは、ちょっと現時点では想像もつかないのである。悲観も楽観も特にない。ただ少し咳が出る。風邪、とゆうほどのものではないけど、まあその初期症状くらいではあるのでしょう。早めのバファリン。しかし薬にはできるだけ頼りたくないので、葛根湯の顆粒を水で流し込んだ。そういえば『月光のつつしみ』で、あの若い妻が、お義姉さんに薬を買ってくるシーンがあった。あれは何の薬だったのか。狂気と日常には境目があるのか。日常はべったりと張り付いてくる。学校ではそれが社会人としてのノーマルな在り方であると教えられるし、そうやって均質な日本人がつくりあげられていくのだろう。だとしたらクローン工場とそんなに変わらない。いや、そんな学校教育はすでに滅びていて、今日の学校では、ついに個性的な人材を輩出することに成功しているだろうか。そうあってほしい。だが他人には期待はするまい。もちろん教師にも。警察官にも。信じられるのは、どんぶらこ、どんぶらこと流れてきた大きな桃を、その老体にもかかわらず家に持ち帰った爺さんだけなのである。食い意地のはった婆さんはもう信用できない。いや、もちろんすべての婆さんが信用ならないわけではないし、その婆さんにしたって、飢えていたところに現れた桃を見て、包丁を取り出さずにはいられなかったのかもしれない。かぶりつかなかっただけまだマシと考えることもできるのだ。すぐに判断するのはよそう。今わたしの頭に棲みついているのは、銭湯の番台に座っている婆さんたちで、それだって、愛想の悪いのからえらく優しいのまでいる。しかしだからといって、愛想の悪い婆さんが信用できないとはかぎらない。むしろ愛想笑いほど、人類に害悪をもたらしているものはないのである。顔に張り付いた、媚びと恐れとによる愛想笑いをすっかり消し去った時、人類は、ついにオーセンティックなみずからの「顔」を発見するに違いない。
 
 
 
それにしても疲労の度合いが半端ない。ここ数日、観劇が続いたのもある。前もゆったけどそれは冒険でもあるので、数々の山を越え谷を越え、ぼくらの町へーやってきたー、みたいな忍者ハットリくん状態なのだ(だが今、わたしが思い返しているのは、ハットリくんではなくてシルバー仮面の歌なのだ)。巻き込まれやすい業の持ち主なので、すぐにあれこれに駆り出されるのだが、しばらくはできるだけひとりでいる時間を増やそう。特に東京に行く回数はできるだけ少なくしたい。
 
 
 
帰り道に、やめました君こと山下やめました君とすれ違った。とりあえず彼に言いたいのは、ヘッドフォンをして自転車に乗るのは危険だからやめたまえ、とゆうこと。