BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130924 月光のつゝしみ

 

黄金町のあたりに、ソ・ヒョンソクさんがいるのを見かけて、簡単にご挨拶する。10月の急な坂スタジオの日韓合同公演に向けてのフィールドワークか何かだったのかしら。

 

ベローチェに入って、さて溜まっている日記に手を付けるか……と思ったところである人から電話。30分くらい相談を受ける。思い詰めている時って、その流れが全て、みたいになってしまうものだけど、反転させたり、もう一本線を引いたりしてみると、案外違う道が見えてくるものかもですね。

 

 

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ハイバイ『月光のつゝしみ』をKAATで。岩松了が1994年に書いた戯曲。ケータイもない時代だし、ウインドウズ95もまだないのだから、今の時間感覚からすると少し長いなと感じる部分があるのは否めない。しかしこの時間を経るからこそ初めて見えてくる風景があったのは確かであり、しかもおそらくそれは(岩井秀人が当パンに書いてあるまさにその通りに)観る人によって異なるのではないだろうか。わたしの場合それは、実家から近所の小学校(母校ではない)や公園につづく小道だった。30年くらい前のそれ。もちろんそんなのって、ノスタルジーといえばそうだ。だけどそれはいやらしく喚起されるわけではない。国破れて山河あり。むしろここで鈴木励滋が指摘しているような、それは例えばジャームッシュ的な世界として立ち現われてくるのだった。あの湖のことはわたしもなんとなく記憶している。それを見つめる人たちと共に。もしかすると、ある人間の記憶は、風景(とそれを描く芸術作品)を通して、他者のそれと束の間の繋がりを得られるのかもしれない。

http://d.hatena.ne.jp/bricolaq/#moonlight

 

言葉との距離を感じさせる女優陣の語り口は、ものすごい異化効果をもたらしている。能島瑞穂の登場シーンには、まあごく控えめに言って驚いたし、『演劇最強論』の153pで岩井さんが語っているあの名シーンでは、まあごく控えめに言って瞳孔がひらくような思いがした。彼女たちは、狂っているのかなんなのか。一見ロジカルに攻めているようでいて、よくある会話劇のそれにように論理的に煮詰まっていくわけでは全然ない。するりと別の穴を見つけていく。するりと日常から離れて、気づいたらやはり日常に戻っている。だがそれは前と同じ場所なのか。そもそもこの人たちはどこにいるのか? 語られている言葉の外には、つねに様々な可能性や世界が示唆されている。その気配が漂っている。無数にある様々な可能性の中から、ひとつが選択されて現実としてそこにあるのだが、記憶は曖昧にブレていて、本当にそれが選択されたとも言い切れない。それがきっとこの舞台に不穏さをもたらしているのだろう。何度か、決定的な出来事が起きる。だがその理由もハッキリとはしない。それぞれの背中が何かを物語っているのだが、それはやはり明確な理由や意味としては像を結ばないのである。序盤のスリリングなやりとり。そして終盤に向けての、連帯や裏切り。取り残される人間たち……。

 

こうした語り口、時間感覚、そして風景は、現代演劇の大きな財産になると思う。岩井秀人や松井周ら作家にとっても、俳優たちにとっても、観客たちにとっても。わたし自身、これはとても大事な財産になったような気がしている。時々、この場所に帰ってこられるようにしたい。

 

ひとりで静かに余韻を噛み締めたくなったこともあり、あと、観ていて野菜を切りたくなったので、どこにも飲みにいかず、野菜と缶ビールを1本買って帰った。気づいたら何かを見ないようにして足早に生きてしまう。そうではない生き方をしたいのである。あるはずのものたちをちゃんと感じて生きていたい。