BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130901 空(UTSUBO)

 

遠方のとある人とメールのやりとり。『演劇最強論』はどうしても特殊日本的なドメスティックな観点によって書かれているので(今回に関してはそれが悪いとは思っていない、ひとつの仕事としてとても重要だと思うから)、彼女のような人がどう読んでくれるか、ということにはすごく興味がある。人間はどうやらすぐにコミュニティに埋没する生き物である。それが様々な安心や保証を与えてくれるのだから、まあ、そうなるでしょう。でもだからこそストレンジャーの目は必要なのだし、そして外部に立つ、ということは、もちろん天性の資質や性向があるのだとしても、ある程度の訓練を抜きにしては実現できるものではない。なかなか大変だけれどもそういう生き方はかっこいいと思う。そうこれは生き方の問題なのだ。

 

 

京急に乗って、いつもの喫茶店で原稿を書くことにした。天気が良いので、そのまま海にでも行こうかなあ、と思っていたら、H嬢がtwitterで吉田町に演劇を観に行くと書いてあり、ちょっと気になった。それで、面白かった?、とメールしたら「みたほうがいい!!!」とすぐに返事が返ってきたので、「!」3つ分の興奮は信じてみてもいいかなと思って18時からの夜公演を観ることに。

 

空(UTSUBO)という多国籍グループによる、『横浜とヨコハマと横濱とYokohama〜伊勢佐木町編』。空(UTSUBO)は確かF/T公募の選考に途中まで残っていたことがあったのでちょっと気になっていた。

 

伊勢佐木町にまつわる5人へのインタビューを構成し、イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』の引用を入れたもの。当パンに書いてあるように「ドキュメンタリー演劇」であるとひとまずは言えるのだろう。

 

正直、最初のほうは、話の内容自体は面白かったけど(メリーさんの裏話とか)、これだったら文字に残すほうがよいのでは?、と思った。そのほうが伝達能力も高いし、わざわざ演劇なりパフォーマンスなりにして見せなくてもいいのではないかと。わたしが演劇に期待するのは、ある事実がフィクションの力を借りて化け物に変化するところなのだ。しかし「岸井さん」(モデルは岸井大輔)が登場して黄金町の「浄化」に言及したあたりから、一気にパフォーマティブになっていく。そこに各言語が重ねられていく。カルヴィーノの引用も含めて、朗読=暗記の効果が十全だったとは思えないけど、とはいえ非常に刺激的な公演だった。

 

いくつかメモしておくと、

・「岸井さん」がこの町にとって異物=ストレンジャーだったこと。やはり横浜の特にこのエリアの土地の強さは、大抵の人を「コミット」や「愛」に誘ってしまうものだが、「岸井さん」はちょっと小賢しいくらいに外部の人としてそこにいて(いないけどいて)、でもそのことがこの演劇に圧倒的に奥行きをもたらしていた。つまり「横浜が好きです、愛しています」ということを、別にわたしは演劇を通して観たいとは思わないということかもしれない。それどころか、むしろそうした同意を促すような言説は危険だとさえ感じているのかもしれない(同質性と排他性は必ずセットになるから)。ある町や都市が真に魅力的になるとしたら、それは様々な異質な考えや価値観を持った人々が同じ場に存在しうるような時だろう。ちなみに今回は「伊勢佐木町編」だけど、この公演のインタビューを基調にした方法論は各都市に転用可能であるはず。

 

・身振りや言い間違いなど、いくつかのその語り手の特徴を「再現」していたこと。これは、映像のほうが圧倒的に正確に再現できるし、文字でもできるんだけど、それをあえて演劇で(他人の身体を通して)再現することの面白さとは何か?(最近、こういうニュアンスが蔑ろにされる、という経験をしたばかりでもあり、惨憺たる凋落を迎えつつある文字文化やメディア業界の現状を考えると、演劇という手応えを伴うアウトプットがあることは重要かなとあらためて思う。こういう口実でもないと、インタビューをするということ自体、難しいものだし。)

 

・地名(固有名詞)の持つ効能について。特に今回は「7丁目」が印象的だった。町に生きる人々がどのような地理感覚で生きているかを表している。

 

インタビューしない、とか宣言したばかりだけど、どういうつもりで作られたのかとても気になったので、構成・演出の岸本佳子さんにご挨拶したいと思ったら、なんと今回の公演のための休暇を終えて、今日の昼公演を最後に留学先に戻られたという……。なんてこったい。

 

 

 

Sさんが来ていたので、誘って伊勢佐木町有隣堂の裏にある延明へ。いつか誰かとここで狗料理を食べたいと思っていたのだが、Sさんはわりと平然と「いいですよ」という感じだったので、ついに狗肉のスープに手を出した。店の人が「初めて?」とにやにやしていた。いや案外、美味かったです。やがてOとHも合流して終電まで飲む。Oさんは悔しいことがあったらしくて泣いていた。そこまでこだわるものがある、というのは大事なことだと思う。しかし苛立ちの源泉を的確に特定し、正確に撃っていくことが必要かなと思う。気分に振り回されているほど我々は(とあえて言うけど)暇ではないはずだ。そしてそうすれば、いくらか他人に寛容になれるかもしれない。言葉を使うというのはおそらくは闘争なのだろう。ある価値を体現するための。獲得するための。証明するための。闘うなんて……みたいな批判はよくなされるけど、そういうクリシェの投げかけにもはや足踏みしたくない。それは単に、闘争の意味を勘違いしているだけなのだから。まあ闘争とかいう言葉はあまり表だっては使わないで、道化のフリをしていてもよい。デタラメでいこう。ただ直感的にいうと、事態は思っているよりも切迫しているのかもしれない。とはいえ肩に力を入れても仕方ない。温泉にでも入ってほぐしてやろう。でも淡々と的確に見つめること。準備すること。みなと別れて歩いて帰る。夜風が気持ち良かった。

 

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