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BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130829 インタビューについて/戦争と夢と言葉について

 

KAATで渋さ知らズ不破大輔さんに取材(この公演のため http://www.kaat.jp/detail?id=7735)。20分ほど遅れて現われた不破さんにお会いするのは2回目で、最初はあうるすぽっとの企画で、日比谷公園でお話を聴かせていただいたのだった。この日はずいぶんリラックスしてお話を伺うことができた。過去のあらゆるインタビューの中で最も緊張しなかったかもしれない。KAATの担当の人が気心知れているということもあったし、屋外ということもあったし(太陽が暑かった!)、不破さんの人柄もあるし、まあこれでいよいよ最後、という思い切りが爽やかな気持ちをもたらしてくれたのはあると思う。担当編集の方が、このまま番組になりそうなくらい面白かったですよ、とリップサービスでしょうか過分な御言葉をくださったのだけども、それはもちろん語り手が魅力的だからということです。

 

ここ数年、インタビュー仕事を通して、話し言葉と書き言葉についてひたすら考えてきた。それは抽象的・形而上学的な思考ではなくて、実践を通して、感覚を血肉にしていくような作業だった。自分はどうやら話し言葉/書き言葉に強い関心や研究欲を抱いているようで、たぶんフェティシズムさえ感じているとも思う。人の声や、それが孕んでいるボキャブラリーやノイズやニュアンスが好きだから。そういう意味で、これ以上楽しい仕事はなかった。

 

いろんな人に直接お会いして話が聴けるのも嬉しかった。今その人が何を考えているか、ヴィヴィッドに聴けるのは、編集者やライターという職業の役得であると言ってもいい。……ただ、逆にこの「今」というものが今のわたしには少し辛くもある。現在というものへの興味を失いつつある、というと語弊があるけども、例えば、死んでいる人にはインタビューすることはできない、という当たり前の事実にあらためて思い当たってしまう。むしろ死んだ人の声を聴きたいという気持ちが芽生えてしまった。死人に口なし、なのだが。(不破さんとも今日そんなお話をした。)

 

とにかくこれをもって、インタビューの仕事を受注するのはいったんお休みにしようと思う。その休業期間が半年なのか、一年なのか、永久になのかはわからないけど、「お休み」を経て、再び生きている人の話を聴きたいと思えた時に、忘れずに発注してくれるようでしたらその時はまたぜひよろしくお願いします。とはいえムサビの「マウリーフ」や世田パブの「キャロマグ」ではそういう機会もあるだろうし、自分のサイト 「BricolaQ」では何か仕掛けていくかもしれない。

 

「インタビュー=話を聴く」というのは非対称的な傾斜関係を呼び起こしてしまう。そこには当然ながらインタビュアー(聞き手)とインタビュイー(語り手)がいる。もちろんある種の信頼や親密さによって支えられた関係なのだが、商業媒体の場合、この傾斜はいやおうなく強い要請としてのしかかってくる。今のわたしは、できるだけそうした傾斜の無い状態で人と話したい、という気持ちが強い。対話するということ。自前のメディア(BricolaQ)であればそれができるかもしれない。

 

この「お休み」は前々から漠然と計画していたことではあったし、すでにあまりにも多くのインタビュー仕事をお断りしてきたので、今さらという感もあるのだが、最近起きたとある事件が決定打になったという側面もある。人の話を聴いてしかもそれを言葉にする、という行為はわたしにとってすごく大事なことなので、責任と約束を果たし、信頼と親密さを積み重ねていけるような場所でしかやりたくない、とあらためて思い知らされることになった。

 

生きていくと、どうしても誰かを傷つけることがあるけども(人間は存在することによってある場所を占めてしまうから)、それにしたって無闇に人を傷つけていいものではない。ナイーブになるのではない。ある種の傷つきやすさ(ヴァルネラビリティ)をもって、他人の前に現われる、いや現われ合う(リスペクトし合う)ということ。その時の関係性がわたしはとても気になっている。仕事だからそれができないということはないはずで、むしろ仕事だからこそ、プロフェッショナルにそういう関係性を追求していくことができるのではないかと信じてきたのだが、その意識を共有していくことはどうやら今のところかなりむつかしいようだ。すでにある前時代的なシステムを踏襲するのは、全然オトナの仕事ではないとわたしは思うんだけど。

 

資本主義をベースにした商業主義というものは、(良くも悪くも)世の中が拡大・発展・進歩していく時代であれば、そこに生き生きとしたバイタリティを呼び込むことができる。上昇志向も含めて、そこには活力がありうる。しかしそうではない停滞期の場合、形骸化した発想やシステムが横行し、もはや誰のだかわからない欲望によって個々人がただ踊らされてしまう。そういう時代では、いったいいかなるシステムや欲望がどのように機能しているのか、冷静に突き放して観察する態度が必要だと思うから、そんなわけで一歩退いた場所に撤退して、ギャンブル用語で言うところの「見(ケン)」に入って力を蓄えます。だから撤退というより次のステップに行くための布石のつもりでもあるんだけど。まあ演劇にかぎっても、若くて活きのいいもの書きが何人か出てきつつはあるので、彼らにどんどん仕事を振ってみてはいかがでしょうか。

 

 

夕方は、とある人とお会いして謝罪を受け入れるはずだったのだが、先方の都合でキャンセルに。できれば早いところ決着をつけたかったけど、もう急ぐことでもないので、気長に待ってみようと思う。向こうにも言い分があるだろう。別に謝ってほしいのではなくて未来の話が聴きたい。さてしかしこの急な予定変更をどうしよう、ひとまずソフトクリームでも食べようかなあと思って象の鼻テラスに行ってみると、さとうりささんの展示『宇宙船”かりぬい”』があり、担当のHさんがいらっしゃったので中に入らせてもらった。Hさんとなんとなく雑談(今度ゆっくり飲みたいですね)、のち、そのままそこでPCをひろげさせてもらって「ele-king」の原稿を書く。このモノリスを思わせる宇宙船の前にいると不思議と落ち着くし、奇妙な集中力が喚起された。幼稚園の時に、こういう形状をした食べ物が配られていて、好きだったんだけど、名前が思い出せない。味と匂いは覚えているのに。

 

 

伊勢佐木町で担々刀削麺を食べていると、黄金町でH君と飲んでるよとヤスから連絡があって、じゃあ銭湯寄ってからいくわーということに。考えてみたらヤスと飲むのは『シンポジウム』以来初めてかも。最終的に映画の話とかして、たのしく飲んだ。

 

テレビでは報道ステーションがかかっていた。選挙の時に「こげたアンパンマン」と呼ばれていた石破茂氏が出ていたが、音声がミュートになっていたので、何を喋っているかはわからなかった。シリア情勢とからめて、集団的自衛権について話しているらしい、ということはテロップでわかった。

 

ここ数日、シリア情勢に関する報道記事をいくつか読んできて、現時点でのわたしの意見としては、アメリカやその同盟国がシリアに軍事介入することには反対の立場をとりたいということ。「反対」とはっきり言うことにはいささかためらいを感じないでもないけども、声を挙げていく必要をいっぽうではひしひし感じつつもある。そういうことを表だって言える空気は日本にはほぼ皆無だけれども、何かしらの形で声から世論を形成していくような働きかけが必要なのではないか、という危機感は、さすがにこの国にいる以上、もはや感じないわけにもいかない。そこまで不感症ではない。今回の軍事介入は、さらなる怨恨と報復の連鎖を中東に撒き散らすだけになると思う(これは対岸の火事について言っているつもりではなくて、その余波が確実に自分の身にも迫ってくると感じながら言っている)。オバマも本音では介入は望んでいないのだ、という報道もなされているけれど、ではいったい、アメリカをそのように駆り立てているのは、いったい誰のどんな意志によってなのか? いつの時代にも死の商人はいる。しかし彼らだって、それは自分の家族を守るため(食わせるため)なのだと平気で口にするだろう。

 

石破氏も含め、安全保障の専門家、とみなされる人物が日本にも何人かいるが、彼らは基本的に戦争を止めることはできない、と考えておいたほうがいいと思う。国際政治上の安全保障という考え方は、戦略的互恵関係や外交によるパワーバランスを意識しているが、そうした意味での「国際社会」に参入するために、まずは自衛隊を軍隊として認めさせなければならない、というのが彼らの基本認識にあり、だからいきおい好戦的になっていかざるをえないのがいわゆる「安全保障の専門家」である。むしろ日本に足りないのは(武力によらない)外交のプロだと思うんだけど、公に発言したり、交渉したりするのはどうやらすっかり苦手な民族によって占有された国になってしまったらしい。

 

打ち上げに失敗したイプシロンが、大陸間弾道ミサイルにも転用可能、という報道が日本語版の朝鮮日報でなされている。それに反論する記事も見かけたが、ひとまず思うのは、日本人の大多数は、北朝鮮のミサイル発射に文句を言いながらも、いっぽうで自国のロケット発射が隣国の人々の目にどのように映るかは考えてもみないということだ。想像力の中にその裏返しの視野は含まれていない。そのへんが「国家」という単位でものを考えることの限界(壁)なのかもしれない。言い悪いを別にして、単にあまりにも牧歌的な夢がそこに託されている。ただし、そんな牧歌的な夢こそが、実は殺人兵器を生み出してきた、というのも人類の哀しい負の歴史としてある。

 

わたしが芸術に期待するのは、そうした夢が暴力へと直結していくような世の中の理屈(政治的力学)や歴史的反復を、どこかで断ち切ったり、流れを変えたり、編み直したりすることだ、と言ってもいいのかもしれない。単に現実味を欠いた青臭い理想主義ということではない。全然そうではない。フィクションは、そういう力を現実的に持っているのだ。特に演劇を含めたパフォーマンスにはそういう力がある。今日のところはそう言ってみようと思う。少し言いにくいことや、いささかそぐわない言葉をあえて口にしていく、という訓練が必要だと思うから。言葉というのは最初からそこにあるのではなくて、そうやって少しずつ獲得していくものなのだ。

 

 

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