BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130809 cocoon

 

池袋の東京芸術劇場に行くと、某・通りすがりのプロデューサーがいらっしゃったので、アトリウムのあたりで少しお話ししながら、開演を待つ。

 

マームとジプシー『cocoon』。凄まじい圧を持っている舞台で、途中でくるしくなって外に出たいと思ったけれども、これをつくってきた人たちの並々ならぬ気持ちや格闘の日々を思うと、それもできず、最後まで見届けようと腹を決めた。とはいえそれは憤慨してとかでは全然なくて、単純に身体的にキツいからで、マンガの場合はこちらのペースで読むことができるけれども、演劇はそうはいかない。ある決められた時間の尺の中で、上演する側の都合によって切り分けられた時間の中を進行していくことになる。とはいえ演劇の面白いのは、それが必ずしも一方的に決められたものには(なぜか)ならないところにあると思うけれども、あんまりその部分の余白はこの舞台は用意してくれていないのだな、と感じた。解釈の幅がひとつしかない、ということでは全然ないけど、受け手のリズムに委ねるような時間感覚があまり与えられていないな、ということ。どちらがいい悪いということではない。受け渡したいものによると思う。選択なのだろう。わたしの現在の好みとしては、たゆたう時間のようなものが欲しい、とは思うけれども。ただ、終盤のサン=青柳いづみの変身以後にはそれがあった。というかあの青柳いづみは凄く印象的だった。2年間の走ってきて辿り着いた先がこれだったか……という。

 

前半の、3つの木枠を使ったプレイはすごく面白かった。今後の可能性もありそう。身体的な方法論とかじゃなくて、単純にエンターテインメントの技法としてまず面白いし、ああいう時間を挿入することで、全体が豊かになっていく、ということはあるのかもしれない。

 

虫の映像のシーンは、藤田くん気狂ってしまったんじゃないか、と心配したけども、終演後、ロビーでいちおう元気にいる姿が見えたのでほっと安心した。

 

 

ところで、自分は特にこの舞台を観て、「戦争の悲惨さ」とかを感じはしない(あ、ひとつ前の日の日記と合わせて読んでもらえると助かります)。いわゆる反戦教育が、一定の効果をもたらす、ということも思わなくはない。『はだしのゲン』を読んだり、『ライフ・イズ・ビューティフル』を観たりするという体験が、やっぱり、戦争に対する有無を言わさない嫌悪感・忌避感に繋がるということあると思うし、それはそれで大事だと思うから。

 

だけど、やはり芸術の可能性は、メッセージ性よりもディテイルのほうにこそあると思う。(芸術の)神は細部に宿る。(プンクトゥムのことを思い出してみよう……)

 

cocoon』にはそれが感じられた。それが演劇を、教育効果という名の罠から救うことができる。例えばギターを弾いている吉田聡子とか。青柳の身体を受け止める菊池明明とか。飛び降りてしまう山崎ルキノとか。

 

教育は大事だが、結局のところ従順な飼い慣らされた人間というものは、世の中がいざ戦争という時になったら、そちらに対しても従順だろう(必ず、戦争を肯定する言説はオトナたちによって喧伝され知らず知らずのうちに流布されていくのだから)。したがって真にラディカルな教育というものは、自律心を育むもの、ということになると思う。そして芸術(芸術家)には、だから、教育効果などというものからは自律した部分を持っていてほしい。

 

こういうことを書くとせっかちな人(目の前の言葉だけに反応してしまうおっちょこちょいな人)の反発というか誤解を招いてしまうかもしれないが、まあ言うと、ひめゆりの塔には10数年前に行ったことがある。その時に感じたのは、語り部の言葉が、あまりに何度も何度も反復されてしまった結果、機械的になってしまっていたということ。今はどうなのか分からない。ただ、その時はそうだった。それはむしろ(まだ若かった)わたしに、そのこと自体が恐ろしい歴史の風化であることを感じさせた。生きているはずの人間の機械化ほど恐ろしいことはない。伝えなければならない、その使命感がそうさせたのだとはいえ、だがこの場所で提示されている「正しさ」からは何かが抜け落ちてしまってはいないだろうか……? 人間や記憶というものは、この風化作用に抗えないものなのか? そういう意味で、マームとジプシーの〈リフレイン〉は、この風化をもたらす〈リニアな時間の中での不可避の反復〉に対して、十全ではなかったとしても、かなりの効果を挙げたのではないかと思っている。要するに、物語というのは、ほうっておくと記憶を固定化させていってしまうものだが、それに対してリフレインは記憶をあくまで現在のもの(だが同時に過去でもあるもの)として蘇らせようとする。ただしそのままの再現ではない。68年後の身体はあの少女たちのものと同じではありえない。そういった(過去・現在・未来といったカテゴリーの罠にとらわれない)時空を超えたものにアクセスすること。フィクションにはそれが可能なのだと思う。

 

というようなことを思ったけれども特にネットに何かを書く必要は今はないなと思った。でも別のところに書いたり語り継いだりはするでしょう。ロビーで橋本倫史くんの『沖縄日記』を買った。

 

 

終演後、そのまま芸劇の楽屋口のほうにまわって、9月の芸劇eyes番外編・GSQ(God save the Queen)の取材。最近、インタビュー仕事へのモチベーションがさがっていて、いろいろ申し訳ないと思いながらもお断りしているのだけれども(端的に時間がなかった、タイミングが合わなかった、というのがほとんどの理由ですが)、彼女たちの作品についてはタカハ劇団以外は観たことがあるし、基本的に面白いと感じている、いやむしろ現代に残された最後の希望だとさえ思っているので、これを最後にしてもいいかなと思って引き受けさせていただくことに。しかし聞き手はとあるゲストが務めてくださることになっていたので、自分としては特にあまり仕事がなかった(いざという時のために、という準備はしてあったけど)。まったく話の噛み合わなさそうな彼女たちが一堂に介して話してるだけでも面白いと思った。ワワフラミンゴの鳥山フキさんは初めてちゃんと(?)お話したけど面白い人ですね。

 

終わって呑みにいって、少々喋りすぎたかな……とやや反省。あんまり人に会っていないので、たまに会うと怒濤のように喋ってしまうことがある。もちろん相手次第というところもある。