BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130803 反復される藪の中

 

目覚めてから、スカイプ会議2連チャン。2つ目はビールを飲みながらやったので、終わってから布団でごろんと横になったら、気づいたら眠っていた。寝汗をかきながら、何か夢を見ていた。内容は思い出せない。花火の音で目覚めた。どこの花火だろう? 一瞬空が赤くなった。

 

自転車に乗って野毛にタンメンを食べにいく。そのまま海にいくか、音楽を聴きに行くかとも思ったけど、どちらもやめて、いつものファミレスに行って仕事をする。淡々と仕事をする。そういえば自転車に乗っている時に、また芥川の『藪の中』のことを考えたりした。あれが書かれたのが1922年だから、90年以上も経っているのに、結局のところ人は同じことを繰り返すわけで、そう思うと絶望しかない。せめて、自分の捉え方と異なる視点が他に存在する、と知ってくれよと思うけれども、わたし自身もまた同じ過ちを犯しているのだろうか?

 

『シンポジウム』横浜会場の3日目だか4日目くらいに、これ終わったらひきこもるな、と思ったけど、今のこの状態はひきこもりなのかなんなのか。飲みであれ、仕事であれ、観劇であれ、デートであれ、様々な誘いを断っているのは事実で、というか断りまくっていて、それは端的に単に忙しいからだが、とはいえこの仕事をしている以上、完全に他人との接触を断つことはできず、それが面白いところなのだが、だからこそ(?)自分の中の人間嫌いと人間好きとは、もう峻別しがたいくらいに溶け合ってしまう。

 

自分と異なる考えを持つ人たちのあいだを泳ぐのは、それはそれで楽しいし、それを観察していくことが自分の性に合っているとも思いながら、いささか疲れた時には「どんとこい!」という気持ちにもなりきれず、それがあまりにも複雑かつ多数になってくると、なんだかいろんな人がやってきてゴミをポイ捨てしていっているような気持ちになってしまうこともたまにある。編集の仕事としてやっているものに関してはいいのだが、もう少しプライベートなものが絡んできた時には、これはいかにも面倒なことが膨らんでくる。実際にはそんなポイ捨てなんてことはなくて、そこにはその人なりの愛もあったりはするのだろうとわかってはいるけれど、それが届いてないことは多いし、というか受け止められなくなって、こちらも人間なので、その様々な(人によって千差万別に異なる)ポーズに対して、いつも万全な状態で付き合っていられるわけではない。

 

そう考えていくと、別に運命の人であるとか、生涯のパートナーだとか、良き理解者であるとか気負うことなくても、単に定点観測的に静かに見つめ合えるような関係というのは、必要不可欠とまでは言わないにしても、あってもいいのかな、とか思ったりするけれど、まあこんなことを考えているのは単に疲れていますね、というだけのことなのだろうし、残念ながらそのような定点観測的な静かな面倒の掛け合いに付き合ってくれる人が現われる気配もない。

 

世の中にある多くの不安や不満は捏造されていると思う。人は不安や不満なしには生きられないのだろう。わたしの場合は、大抵、寝れば治るし、たまにこうやって書いてみたりするだけで、あとは最低限のお金があって生活できさえすれば、特に不安も不満もないのだが、まあそれは生み出されるし、他人を巻き込まずにはおかないのだろう。それもまあ、駄々をこねているとみれば愛らしいものだが、そのような駄々こねを、目を細めて、愛らしい、などと笑っていられるような状態には、少なくとも今のわたしはない。まあ、でも、いろいろどうでもいいといえばいいし、結局のところは愛らしいと感じるのだろうし、これまたあらゆることは寝れば治るだろうから、救いようがない馬鹿なのだと自分で思う。

 

そしてまた、ここでこうやって何かを書き連ねていったものを読んだ誰かが、これらの文章を恣意的に解釈するかもしれず、というか、読む、という行為はほぼかなり恣意的になされるので、まあそうなるのだろうけども、これは何か特定のひとつのことだけを想定して書いているわけではないし、何かを強く糾弾する意図もない、などと言い訳がましく書いてみたところでまあしょうがないのだが、とにかく何かただ文字を(しかも仕事のためではなく)書いてみたいと思うことがあって、今がその時、というだけのことなのだ。

 

なにゆえにこの日記が、文章が、無用の饒舌をしているのかといえば、そのような恣意的な解釈に対して、撹乱してやりたいと思っている側面があるのは事実で、まあそれをただ煙に巻いている、と感じる人がいればそれはそれでいたしかたないのだが、別に真実を書いていないわけではないし、ある文章が(書くという行為を経た時点で原理的に確実に)フィクションであるということと、そこにそれでも真実が含まれているということは、文章を書いたり読んだりする行為に親しんできた人ならわかってはいるはずで、せめてそれくらいのことは信じさせてほしい。断片的な揚げ足取り的な解釈だけがこの世にまかり通っているとは思いたくないのだ(とはいえ麻生氏のあのナチス云々の迷言は酷かったと思うけど)。読む、という行為、あるいは聴く、という行為は、ほんとはなにゆえに相手がその状態に身を染めて言葉を発しているのか、を感受することなしにはありえないのではないだろうか。

 

そのような信頼がありさえすれば、別に面倒を引き受けることは厭わないのだが、この世の中に、というか日本社会に(?)蔓延している見切りの早さ、断罪ぶりを知っているがゆえに、時々くじけそうになるのもまた事実なのだった。どうして手持ちのカードだけで勝負しようとするのか、しかもなにゆえにそんなに勝負を急ぐのか、そもそもなぜ勝負するのか、わたしにはわからない。

 

この数日で何度か、自死、という概念が頭をよぎったけれども、別に死にたいと強く思うほどの動機も理由もないし、単に風邪のようにちょっと通り過ぎた、というだけのことで、ただそれによって、実際に死んでしまったひとのことを思い出さざるを得ないのもまた事実で、そうした命を繋ぎ止めるものと、繋ぎ止めることのできないものとの差は、なんなのだろうと思う。とりあえず今わかっていることは、誰かの存在は、そこにいれば見えるけれども、そこにいなければ簡単に忘れてしまうというか思考の外に置かれてしまうということで、では、ここにいるよ!、と叫び続けることなしに、人は忘却の力学に抗えないのだろうか。わたしはそんなふうにいちいち叫びたくはない。