BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130713 『シンポジウム』開幕

 

東京デスロック『シンポジウム』初日。無事に幕開けした。様々な発見があった。デスロックを初めて観る、という方も思ってたよりけっこういたみたいで、それぞれのモチベーションをもってこの場に臨んでくれているのだな、ということがわかった。観客のことをもっと信じてみようと思う。

 

自分の中での「言葉」の有りようが、ここ数日でだいぶ変質しつつある。特に今日のパフォーマンスには、みずからを構築していたものに対するクライシス(危機)を感じた。終演後すぐは、富士見会場が終わったら「ひきこもりたい」と感じたけれども、それは家に帰ってくる頃には「旅に出たい」という欲求に変わっていた。要するに、全然知らない土地の、文脈を共有していない人と話してみたい、そこで何かを感じてみたいということ。もちろんこの欲望は、まだまだ始まったばかりの『シンポジウム』にも向けられているのだと思う。自分と他人は違う。そんな他人とのあいだに、排除や断絶ではなく、興味、関心、好奇心、そして対話の橋をいかに架けることができるのだろうか?

 

わたしが聴きたい言葉というのは、お決まりの一般論や常識的な語りではないのだ、ということは今やはっきりしている。クリシェ(紋切り型)のストックはすでにたくさんあり、それが様々な偏見や先入観を生み出しているのだが、いっそのこと、今回の作品を通してすべてその膿を出しきりたい、そして海に放流してしまいたい、という気持ち。

 

たぶん今わたしは「日本人」的なるものと対峙しようとしていて、それは左翼的スタンスでもなければ右翼的スタンスでもなくて、ただひとつ言えるのは、現在の世間一般に流布される紋切り型のイメージからは遠いところにその探し物があるということ。しかし、これは勘なので、あの場でそれを瞬時にピンポイントでサルベージすることは相当難しい……おそらくは無理だろう。どうやらここにお宝が眠っていそうだぞ、という直感に従って錨を投げてみるのだが、ある程度ぼんやりとしたエリアにならざるをえないし、100%の確証があるわけもない。

 

いずれにしても、もうひとつ下の言葉の層に潜らなければ、わたしが欲しているものは見えてこないだろう。どうしてもうわずってしまう、上澄み液のような部分の言葉は、外見は透明でいかにも美しい流れがあるかのように見えるけれども、結局のところパス回しだけしていて、決定力を欠く、というサッカー日本代表の積年の課題をなぞっているかのようでもある。スムーズはむしろ罠なのであって、相手に(何かに)ボールを持たされているだけだ、という認識をしていきたいと思う。何かを語った気になる、という状態が最も怖い。そうして時間切れのホイッスルは鳴るだろう。限定された時間の下でできることは、むしろ「語れない」「わからない」ということをどのように(あの場として、また、それぞれの人間として)引き受けていくのか、ということではないだろうか。

 

とにかくスリリングな体験なので、いちばん楽しんでやろう。はてさてフムーン♪

 

 

 

 片側に気をつけろ。片側ふたつで両側になるとはかぎらない。そこには一に一を足して二にならない、あの並列つなぎのゆかしき世界がある。河川の航行規則では、水面の両側をつかうことは許されず、船をあやつる者たちは、どちらか一方から逸れないようにのぼり、またくだる。河川の旅は、つねに片側の旅だ。すらりとした樹木のならぶ土手にはさまれてゆったりと進んでいく船旅はたしかにすばらしい。小さな生き物にぶつかったりすることはあっても、海の怪物や白い鯨などいるはずもないし、晴れた日にはまっすぐにのびる運河の両岸の平行線に空の青みが切り出されて、得も言われぬ美しさだ。それでも、一時間、二時間と変わりばえのしない景色をながめていれば、どんなベテランでも退屈してくる。船を停めて岸にのぼり、低い天井を気にせずおおきく背筋をのばしたり、陸地に立っている一杯飲み屋で冷たいものを口に入れたりしたくなる。川と運河をつないで巨大な水の網み目をとうくるさいに閘門を設けたのは、勾配の解消のためだけでなく、あまりにここちよいぼんやりを、つまり片側だけのぼんやりを、他者との交通によって両側のあるぼんやりにするためでもあったのではないか。平底船一艘しか通過できない水路では、午前と午後にのぼりくだりをわけて衝突事故を回避する。いやむしろ、相手の通過をじっと待っているその待機の時間が、閘門の意味のすべてといっても過言ではないのだ。したがって、と彼はふたたび夢想をたわませようとする。繋留された船に暮らす者の使命は、ひたすらに待つことなのだ。のぼりくだりを帳消しにし、それでいて判断の基準を、いつでも海へと流れていけるような視点の変化に置くこと。定点観測に近いとはいえ、下には水が流れているのだ。足場のないところに足場を仮構するあやうさを、むしろ大切にしておきたい、と彼は切に願う。

 

(略)河岸に繋留された動かない旅人を演じる準隠遁生活は、「潜伏」というまことに物騒な相貌を帯びてくる。潜伏であれ地下潜行であれ、それは半永久に姿をくらます行為ではない。いつかは息を吸うために、日の光を見るために、そして自分ひとりしかいない穴蔵での偽りの孤独から、他者の海に囲まれた離れ小島の孤独への転換を図るために、ひとは暗闇のなかを静かに浮かびあがってくるのだ。とどまることは、空間的な不動をというより、精神の不動を指し示すのだと信じて。

  堀江敏幸『河岸忘日抄』