BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130618 ブラックコーヒー

 

ゆうべ観た岡崎藝術座『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』。家に帰ってまずしたことは戯曲を読み返すことだった。というか、今回、戯曲(上演台本ではなくて、あくまでも稽古前に書かれた戯曲)が飛ぶように売れていたのだが、わたしもすぐさまこれは買いたいと思ったし、なんでしょうかね、この、戯曲に吸引される感じ……。意味がわからない(けど、面白い)から戯曲どうなってるのか知りたい、という気持ちも働くのだとしても。今彼は小説を書いているらしいけど、物を書いている人間の沈潜した感覚が色濃く感じられる戯曲だった。

 

『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』は、わけのわからなさに関しては最近の中でもピカイチで、もうそのこと自体に苦笑、失笑、いや、嬉しい気持ちで微笑するしかない。観ながら、ああ、岡崎藝術座という存在がなかったら、自分はとっくに「演劇」というものに飽きてどこか行っちゃってたかもなー(でも、どこへ?)と思い知らされたのだった。まったく意味がわからない!、というシーンでなぜだか泣けてくる。そんなふうに泣いちゃうことさえ馬鹿馬鹿しく思えてくる。

 

とはいえ内容はかなりシリアスだ。ヘイトスピーチ、幼女誘拐監禁事件、原爆の設計図が盗まれた事件……これらが絡み合い、いや、あまりちゃんと絡み合うこともなく、混沌の中に投げ込まれている。構造的にきっぱりとした結び目があるわけではないから、それこそミステリーの謎を解くようにきれいに理解をすることはたぶんできない。しかし言葉の力でぐいぐいと押してくる。それも、ほとんど意味のわからないような言葉の群れだったりするのだが、時折ふっと、変な文字列が耳に残るのだ。事前にマンスリー・ブリコメンドのほうで《プンクトゥム》の話をしたけれども、今回その要素のひとつはこの変な文字列かもしれない。あと藤井咲有里がお尻を突き出した時のあのフォルムとかも(この俳優さん、おそらくわたしは初めて観たと思う。なんとなく気になってしまう。さらにパフォーマンスを向上させてほしい、なんだかまだその余地がありそうだから)。

 

先日の木ノ下歌舞伎『黒塚』で凄まじい存在感を見せたあの武谷公雄(台湾岡崎藝術座の代表)が今回いないのだが、むしろそのおかげ(?)で、最近の岡崎藝術座で重要なポジションを得つつある稲継美保や、新人(?)的な小野正彦にとってはチャンス到来という感じもある。特に今回、センター的などしんとした役割を任されている稲継美保は、最近の何作かを観て「いい女優さんだなあ」と漠然と思っていたけれども、今回、さらなるその魅力を発見したように思う。なんか妙にノイズが多いのだ。スイッチが入った時に、変なものが漂っているのが見える。やばい感じが出てきた。まだまだ底知れないものが引き出されてきそうな気配を見せている。

 

さすがの安定感を見せる鷲尾英彰と、飛び道具的な大村わたるのコンビも見所。できればもう一回観に行きたい(だって最後にあんなことも言われてるし)。

 

 

で、以下は、ネタバレというほどではないけども、できれば観に行った後か、公演が終わってから読んでもらったほうがいいかも的なことを。

 

序盤、とてもとても、エルフレーデ・イェリネク、とりわけ『レヒニッツ』を思い出した。それはあの俳優たちの横一列の並び方にもあるけども、なんといっても言葉のリズムや方向性がイェリネクのあの強度を感じさせるのだ。神里雄大はこの夏にイェリネクのリーディング公演を行うことになっているのだから、当然読んではいるだろうし、そこからなんらかの影響を受けたとしてもおかしくない。……で、として、これはもしかしたらとてつもなく良い出会いなのでは?、とも思うのだった。

 

というのは、イェリネクの戯曲というのは、わたしが知る限りでは、独白体の中に彼女の様々な博識と詩的フレーズとが詰め込まれ、それが非常に冷たい響きと、だけど地の底からやってくる温かさのようなものを伴って独特のリズムを持った文字列として現われるのだが(翻訳の林立騎の功績も大きいと思う)、それが元々モノローグによるテクストの構成を得意としてきた神里雄大に、思い切りと勇気とを与えて、その才能を解放させ、突っ走らせようとしているのではないだろうか(独白でも別にいいのだ、それが世界を撃ち抜けるのだという証拠となって)。

 

ただ、イェリネクがあるテーマに絞ってそこに膨大な知性を流入させていくのに比べると、神里雄大のテクストは非常にスキゾフレニックというか、思いも掛けないセンテンスの連続性(あるいは非連続性)と、錯綜する複数のテーマの、収斂できないからこその魅力とがあって、さらにはそもそも彼が持っているユーモアやペーソスともあいまって、もはや何にも似ていないものとして現われている……

 

そして、『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』がこれまでと決定的に違うのは、言葉の密度や解像度が飛躍的に向上しているということ。テクストのまとまりやスケール、メッセージ性という点では、『隣人ジミーの不在』のほうが強く心を打つと思うのだが、しかし今作はモラリストとしての神里雄大ではなく、作家としての神里雄大を大いに召喚しようとしている。

 

おそらくこの変化は、ヨーロッパや北アフリカ、そして東アジアなどを旅していく中で、様々に彼が経験したことと、情報として得られる知識とがリンクしていった結果、血肉化した、ということなのだと思う。身の回りの素朴な実感に終始するか、お勉強としての知識に頼るか、といったこととは、明らかに一線を画す言葉がここにはある。それは巨大な塊のようなもの(だがモヤモヤとした不定形なもの)として蠢き、立ち上がろうとしている、エクリチュールの群れなのだ。野村政之くんの言葉を借りて、この巨大なテクストの塊を「ぬかるみ」と呼んでみたい。

 

この認識についてはおそらくいろんなところに書いていくことになるので、ひとまずここでは深入りはしないでざっくりとだけ書くけど、ここ20年くらいの日本は「語れなさ」のプールの中に押し込められていたと思っている。このプールの中では、迂闊に水面上に顔を上げて何かを言おうとしても、その言葉はこのプールの監視員によって即座に撃ち落とされ、無効化されてしまうのだ。なので、じっとプールの中で、我慢をしていなくてはならなかった。一種の長い失語状態である。

 

もしかすると、神里雄大がつくろうとしているこのぬかるみは、このプールを脱出するための(唯一とは言わないが)数少ない手がかりなのかもしれない、と『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』は感じさせてくれた。言葉を無効化する監視員をさらに無効化してしまうような力が、ここにはあるのではないか。

 

まあ、それについてはまた語るとして。

 

もうひとつ、今回の『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』は、何かしらの「正義」を訴えるものではない、ということも特徴だと思う。ヘイトスピーチをする側のほうに拠って書いているところもそうだし、幼女誘拐殺人事件にしても、被害者や加害者そのものは登場せず、その友人たちの噂話や目撃証言が語られるだけで、いわば当事者が不在なのである。頼みの綱のポワロヘイスティングスにしても、自慢の灰色の脳細胞を働かせるどころか、ホモセクシャルなセックスに精を出すばかりだ……。それらが、この戯曲(作品)を「わけのわからない」ものに仕立て上げている。だがたぶん、神里は直感的にわかっているのではないだろうか。明瞭な形をとらないぬかるみの中で居続けなければいけないと。そして、ぬかるみのまま、そこを歩んでいく力を(これには相当な力量がいる)、彼や、彼と歩みを共にする俳優たちは、今、探っているのではないか。

 

あえて暴論めいて言うなら、演劇は、全然、わけわからなくてもいいのだ(力さえあれば)。短絡的な簡単な理解というのは、むしろ、罠なのである。批評とはそうした理解を促すものではないだろう。そんなつまらないことをやっている暇はないのだ。今回、阪根正行さんが、ブログに感想として「ジジジィイイ」という謎の言葉を書き残しているが、批評とはもしかしたら、この「ジジジィイイ」という音の中にこそあるのではないか(いや、特にそこに意味があるとはではなくて)。だってほら、プールの監視員が見張っている。「ジジジィイイ」という音は、彼の関心を、一時的に引きつけることができるかもしれないのだ。そして、やつの裏をかくような、どでかい夢がわたしは見たい。そしてそれこそが作家の仕事なのである。たぶん、それは、現実をも呑み込んでいくような巨大な夢になるのだ。