BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130612 レイヤー、から思い出されること

 

永田町に、笑の内閣『65歳からの風営法』を観に行く。ダンス規制をテーマにしたもので、非常にわかりやすく風営法をとりまく問題点をまとめてあった。感想はtwitterに書いた通り。微笑ましく思うところがある一方で、やはり演劇としてもう少し高めてほしい、と思わざるをえなかったのも事実。特に外(今回の場合は国会議員など)に打って出ていく時に「あ、これが今の演劇なのね」と思われてしまうことをどうしても考えてしまう。

 

制作をしていた前田瑠佳さんという人が、研究対象として枝光にフィールドワークをした、と聴いたので、その成果がどう出て来るのか楽しみにしています。

 

 

ところでどうでもいい話だけど、「レイヤー」という言葉を上の感想のためにtwitterに書いた時にふと頭をよぎったのは、数年前に、とある若い無名の演出家が「レイヤーとかいう言葉を使う批評家は死ね」みたいに粋がっていたと人づてに聞いたというエピソードで、いくら信頼できる人だとはいえ、人づての話を鵜呑みにするほどには自分は(どちらかというと道化者の範疇に入るとしても)愚かではないと思いつつも、やれやれ、またかよ、と残念に思ったのは事実だし、さらに言えばまったくナンセンスでよろしくない言葉狩りなので、それについてちょっと書いておきたい。

 

そもそも、直接会った時はまったく喋らないくせに、ネットとか他人を介してだと雄弁になるあのブログブーム以降発生したと思われる饒舌モードってなんなのでしょうね。経験的に言っても、やたら粋がって誰かを攻撃したがる若手の舞台を見てヒットが生まれたことはほぼ無いので、そういった噂、記憶、存在は、ひとまず闇に葬っておこうと思います(そうやって闇に葬ったものたちの弔いの会を、いつかH夏さんとひらきたい)。他人を攻撃することで防御壁をつくりたい気持ちもわからなくはないけど、ハリネズミになるくらいなら、ノーガードになるほうがまだしもかっこいいとわたしは思うのですが。とはいえ、ハリネズミ化したナイーヴな若僧たちが、周囲の女性たちの母性本能をくすぐり、やたらずるずると延命していくということもすでによく知ってはいる。延命させてよいものかどうかは本気で考えてほしいです。>お母さんたち

 

さて、わたしが「レイヤー」という概念を演劇と重ね合わせて考えるようになったのは篠田千明(ex-快快)経由で、2008年のことだったと思う。坂口恭平氏もたぶんこの頃すでにこの言葉を使っていたのではないかと思うし、その影響があったのかもしれないけども、もちろんこれはillustratorなどにおける多層化を可能にする機能のことも想定されていたし、彼女なりの世界をこの言葉を通して見ているということは間違いなかった。とにかく舞台というものを立体的に把握するにあたって、「レイヤー」という概念は有効であるように思えたのだった。ちょうどこの頃、ドラマトゥルクとしてのキャリアを開始しはじめていた野村政之くんが「空間を埋める」というようなことも言っていて、わたしはまだ舞台について書く、ということをほとんどしていなかったけども(それこそブログに感想を書く程度だった)、なるほど演劇というのは、映画や小説とは違って、空間に対する感覚が異常に鋭いのだということがじわじわ分かってきていた時期だった。篠田や野村くんには、こういった言葉を介して、舞台を観るうえでの最初の「目」を教わったと思う。あの頃はとにかく頻繁に会ってとにかく喋っていたし。そしていろんな舞台を観ていきながら、自分なりにそこに様々な言葉を充てたり、はずしたりしていった。

 

言葉(概念、語彙)というのは、伝播する。その中で練り込まれていくし、様々な意味を付与されたり、剥ぎ落としていったりする。ある種の言葉は、そうした錬磨の時間に耐えうるし、ある種の言葉はそうではない。そういうことだとわたしは思います。使うからダメ、みたいに、何もわからずに断罪するのは、ただの幼稚な遠吠えにしか聞こえない。それをするくらいなら、もっと有効な新しい言葉を(再利用でいいから)世の中に提出してほしい。

 

 

日記に戻る。地元駅に帰ってきた時にはすでに疲労困憊だったので、今日はもう書けない……と思って、すっかりご無沙汰していた近所の立ち飲み屋で(お店には悪いと思いつつ)ビールを一杯だけ飲んで、めずらしく早めに家に帰って主に読書の時間に充てた。

 

デスロック『シンポジウム』の稽古に、少し予定を前倒しして今週から参加しようと思い、制作のHさんにメール。何やるのかワクワクするなー。とにかく楽しみたい。そういえばバルトの『恋愛のディスクール・断章』の参考文献のひとつに、プラトンの『饗宴』が入っている、と今さらながら気づいた。『饗宴』は愛についての話。それをモチーフにするという『シンポジウム』が、どこまで愛の話をするかはわからないけども、そういえば多田淳之介は「演劇LOVE」を提唱してきた人でもあるし、これまでのデスロックの舞台は「愛」をめぐるものであった、というふうに考えられなくもない。

 

 

わたしが恋愛関係についてディスクールを展開するのは、そもそもの最初はあの人のためである。しかし、たとえば友人に打ち明け話をする場合でも同じことが起るであろう。そのときわたしは、あなたからあの人へ移行しているのだ。さらに、あの人から一般的なひとへの移行が起るだろう。恋愛についての抽象的ディスクール、事物一般についての哲学がねり上げられるのだ。それは、要するに、一般論を装った口説きにほかなるまい。そこから逆に考えると、愛を対象にした一般的議論には(いかほど超然としたものでも)、すべて、ひそかな対象指定が含まれてくるのは避けがたいと言えるだろう(わたしは、諸君が知らないにしても、わたしのこの箴言の向う側にたしかに存在している人に向って語りかけているのだ)。『饗宴』にもおそらく、そうした対象指定が存在していると思われる。アルキビアデスが、ソクラテスという分析者に聴取されながら語りかけ、欲望の対象としているのは、おそらくアガトンなのであろう。

 

(恋愛のアトピアというか、恋愛をいかなる論究にも捉えがたいものにしている特質があって、それは、はっきりとした対象指定ぬきに恋愛を語ることが究極的に不可能だということであろう。哲学的なものだろうと、格言的なものだろうと、抒情的なるものだろうと、感傷的なものだろうと、およそ愛についてのディスクールには、常に、語りかけられている人物が存在するということなのだ。たとえその人物が亡霊であったり、まだこれからあらわれる人物であるにしても、ともかくも誰かのためでなければ、なんぴとも愛について語りたいとは思わないのである。)

     ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』

 

 

愛について、とかいうと空々しくなってしまうし、そもそもバルトのマザコンじゃないの?と思う部分とか、時代のせいもあって詩的すぎるのではないか、とかいろいろ思うところもあるにしても、愛についての様々な言葉(ディスクール)を収集するにあたっての彼の態度(本人いわく「演劇的」方法)は面白い。結局のところ、愛について語られる言葉は、いつも誰かに宛てられていて、それでいて宛先を失っているのではないだろうか。直接に届けられる言葉(告白)の強さもあるとは思うけれども、そうやって宛先を失って迷子になった言葉に惹かれるのも事実ではある。上の引用箇所には、語りかけられる人物として、亡霊も対象にされているのが興味深い。

 

ちなみに上に引用した断章の最初には【告白】という項目として以下のエピグラムが掲げられている。

 

 

 

【告白】

恋愛主体が愛する人に対し、自分の愛のことを、その人のことを、二人のことを、激情は抑えつつも雄弁に語りかけようとする傾向。告白とは、秘めた愛を打ち明けることでなく、恋愛関係の形式に加えられる果てしない注釈にかかわっている。