BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130605 ミウラ

 

これはロマンティシズムとはほぼ無縁な、淡々とした事実として述べるのだが(とはいえ誤解は避けられないだろうけど)、朝、目覚めたとき、ながいあいだわたしを悩ませていたあの呪いがすっかり解けているのを感じた。変な話だけどすごい確信があった。これはいったいどうしたことなのか? 夢のおかげかもしれない。ある女性がいて、金縛りのように動けずに仰向けに臥せっているわたしの周囲を、くるくると時計回りに回っている。なんで回っているのかさっぱり意味がわからないけど、とりあえず楽しそうではあるから、わたしもそんなに悪い気持ちにはならない。よく顔を見せてほしい、と懇願すると、彼女は顔を近づけてきて悪戯っぽく笑い(とてつもなく可愛い)、でもただそれだけで、またくるくると回り始める。胸がチクリとするのを感じた。まさにバルトのいう「プンクトゥム」……刺し傷のようなものがここにはあって、しかしこの「傷」はむしろわたしの身体を再生させていく。「傷」が実は「再生」と親和性が高いことを、わたしはこのあいだの事故で経験して知っていた。そしてたぶん、この傷つきやすさ(ヴァルネラビリティ)への感受性というものが、今、とても大事だと思われるのだ。怪我をしたから美醜の感覚も変わってしまったけど、今、わたしが美しいと思うのは、この可傷性、ただし、甘えや依存のない、自律した清々しい可傷性である。ねえ、ちょっと待って、もう少しで何かが生まれそうな気がするから、待ってよ、ってわたしは(青臭くも?)願ったのだが、彼女はいつのまにかフェイドアウトしてしまった。とはいえさみしいとは思わなかった。何かが去った後にありがちなあの空洞感も全然ない。友だち、という概念はたいへんむつかしいのだが、おそらく彼女は唯一無二のとてつもなく良い友人ということになるのだと思う。我々は「所有」によっては結びつけられていない。ヴァルネラブルなものだけが、不可能な接続を可能にしている。

 

起きたら熱があった。けっこうぐったりしていた。ここ数日だいぶ過密スケジュールだったから、仕事の疲れも出たのかもしれない。天気もいいし、このまま寝て一日を過ごすのはもったいないので、いっそのこと遠くまで出かけてみようと思って、京急に乗って三浦半島方面へ。今日一日、何を考えていたかについては、以下の文章を引用すれば事足りると思う。

 

 

 

多くの哲学者が言うように、「死」とは種の冷酷な勝利にほかならず、特殊なものは普遍的なものを満足させるために死ぬのであり、個体は、自分自身以外の個体として自己を再生したのち、否定され乗り越えられて死んでいくというのが事実なら、私は実際には子供をつくらなかったが、母の病気そのものを通して母を子供として生みだしたのだ。その母が死んだいま、私にはもはや高次の「生命体」(種)の歩みに身をゆだねる理由はたったくない。私の特殊性は、もはや決して普遍的なものとなりえないだろう(ただ、ユートピアとしては、書くこと(エクリチュール)によってそれが可能となるのだから、今後は書く企てが私の人生の唯一の目的となるのでなければならないのである)。いまや私は、私自身の完全な、非弁証法的な死を待つしかなかった。

  ロラン・バルト『明るい部屋』