BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130528 ロロの演劇

 

異様にメールを書きまくった日。ファミレスで黙々と仕事してたらOY氏から電話があり、そこに来てもらってしばしの密談。昨日の桜井さんとの話に引き続いてとても重要な示唆をいただいた。前夜に観たロロの話もちょっとした。

 

 

というわけでロロ『ミーツ』の感想。

 

 

『ミーツ』は、ロロが「ロロ」になっていく過程でつくりあげてきた「ロロっぽさ」という殻をみずから食い破るような重要な作品になっていると感じる。見た目はいつもよりもさらに学芸会っぽいテイスト。であるにもかかわらず、かつてない成熟(変容)を感じさせるのだった。これまでのロロを自己批判的に乗り越えるようなところもあるのでは?(その意味で、ロロの小道具の中でたぶん最も重要だった脚立が倒されるのは象徴的)

 

今までのロロにはありえなかった性的(?)表現も含まれていて、人間が、生き物として様々なサイクルに含まれてしまっているという、有機物と無機物を、さらには具象と抽象を行き来するようなちょっと気持ち悪い質感がある。三浦直之の中の非常にナイーブな、いや、もっとも傷つきやすい部分(ヴァルネラビリティ)が不思議な形で顕れようとしていると感じた。何が「不思議」なのかというと、それは現在の演劇では極めて稀な想像力によって物語が紡がれていくということ。

 

想像力、はどうやら『ミーツ』の最大のテーマであるらしい。誰かを愛するという気持ちがただの「想像(=自分勝手な思い込み)」にすぎないのではないか?、という命題が提示されるのだが、映画『ダンスナンバー 時をかける少女』からも通底しているこの問いに対しては、一般的には、「実存(=今ここに存在すること)」を見よ!、という形で対応するのがよくある解決策ではあるはずだ(例えば北方謙三が童貞に対して「ソープに行け!」と言ったように)。

 

しかし三浦直之はそうではなく、愚直なまでに、想像力のさらなる可能性に賭ける。思いも寄らないイメージをたぐり寄せ、ありえない回路を生み出していく。ここはやっぱり、ロロならではのマジカルな手腕が発揮されるのだ。そしてあるシーンでまさに奇跡は起きる。コミカルだが同時にシリアスでもあるという、そこからの不意の時間、そして一連のシークエンスはあまりにも美しかった。

 

 

ところでこれまでのロロは「繋ぎ」が生命線になっていたと思う。断片的なシーンをいかにうまく縫合していくか?、がそこでの課題だった。人造人間に喩えるならば、バラバラの肉片のままではなくて、いかにそこに生命を吹き込むかこそが大事なことであり、三浦直之はそのための一種の錬金術的な魔法を追求してきたというふうにもわたしは思っていた。たまにロロの舞台でうまくいってない、と感じる時は、要するにこの錬金術に失敗した、と考えてよかったと思う(公演の後半になってやっとその調合術が発見される、というようなこともあった)。具体的な方法としては、様々なガジェット(脚立とか)を通して、本来は別の場所にあるシーンとシーンを繋ぎ止め、それによってシーンをスムーズに転換させ、イメージをシームレスに連鎖させていく、という手法を採っていたと思う。

 

でも今回はその繋ぎにそんなに固執していないように見えた。もしかしたら、観ているこちらがそこを気にしなくなっていただけかもしれないけども、どうだろうか? それよりも今回は、どちらかというと上に書いたような「想像力」をめぐる哲学的なテーゼと、控えめな絶妙の笑いによって場を保たせていた。最初それは(観客に)考えさせすぎなんじゃないか、だって別に古典的な認識論の問題にすぎないのだし、とかも思ってたんだけど、それはわたしが浅はかだったわけで、要するに『ミーツ』は短絡的な目先の答えを求めないでじっくりとチャンスを待っていたのではないだろうか。100分という上演時間をついやすことで初めて応えられるものがある。それを「待つ」ということが実は物語の力なのではないか。『ミーツ』はそうした物語や時間に対する信頼を感じさせる作品になっていた。もちろんただ無為に無策に待っているわけではない。舞台に立つ彼らには、いつも以上に「みっともない」姿勢が要求される。キャラクターを演じながら同時にそこから逸脱しながら、物語、というものをそれぞれなりに抱きしめていくしかない。

 

そしてかすかに(ほんとうにかすかに)愛は発見される。

 

 

今回はなんといってもロロ初登場の伊東沙保の存在が大きくて、あのシーンは彼女抜きにはありえないと思った。彼女にはいわゆるステロタイプ的な意味での母性が感じられないとわたしは思うのだが、そのせいか、亀島一徳(とまる君)とのやりとりも「友だちのお母さん」ではなくて謎の関係になる。愛人なのか、友人なのか、ビジネスなのか、何なのか? 板橋駿谷と工藤洋崇との関係も、だから単なる父・母・息子という分かりやすい関係にならない(そうなってしまうと極めて単純にフロイトユング的なエディプス・コンプレックスの話として回収されてしまいがち)。関係性が固定されない、というのは『ミーツ』においてはたぶんとても重要なことであり、伊東沙保はそうした意味でこの舞台に何か循環するサイクルをもたらしていたと思う。ぜひまたロロに出てほしいです。

 

ダンスが印象的だった水越朋はお芝居に出るのはこれが初めてだと聞いて驚いた。どこの世界に属しているのか分からない透明感がよかった。ケンシロウ役の小橋れなはガッツあるという印象をさらに深めた。『いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三小学校』のメチャクチャな先生役も凄かったけど……。そしてピーターパンナこと永遠の片想いの人(されるのではなくしてるほう)こと望月綾乃。彼女が出てるとなぜか安心する。物語を凍結させたり解凍させたりする力があるのかも。