BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130523 カポーティ

 

朝までぼんやり起きていたせいで、目覚めるのが遅かった。とはいえこういう無駄な時間も必要だと思う。部屋の片付けを少しだけしてから、金沢八景の喫茶店へ。東京から遠ざかりたい時、のみならず、横浜からもちょっと距離を置きたいからここに来るのかもしれない。喫茶店の窓から、京急のホームに停車する赤い電車が見える。その車窓から、八景の町を眺めている女性がいた。しばらくその女のひとのことを見ていた。

 

 

仕事のあいまにカポーティのとある短編を読んだ。なるほど「これを読んでほしい」とあるひとが言っていた意味がなんとなく伝わってきた。幾つかの点で素晴らしいと感じるのだが、とはいえ「この感じ」に酔ってしまってはいけないという禁忌の意識も働く。表面上の感染力にかぶれてはいけない。

 

カポーティはずいぶん前に読もうとして挫折したというか、どちらかというとかなり苦手な部類に属していた。単純に『冷血』の陰惨さについていけなかった、というのが大きいのかもしれないが。今なら読めるかも、と思ったら事実、読めた。そこにはいろんな理由があるだろうけどここには今は書かない。

 

本(小説)には、めぐりあうタイミングがやっぱりあるのだと思う。それは順序立てて体系的に読んでいけばいいというものではないし、偶然にも大きく左右される。ふとしたとっかかりで入口がぱっかりと開くということがある。(ただわたしの場合は仕事柄、すべてが偶然任せ、というわけにもいかないので、やはりある程度は量的な体験をしていきながらそこで偶然のチャンスをつかまえることになる。)

 

 

 

「過去→現在→未来」というリニアなものとは別の時間の中にそれはたぶんある。「東京事典」のインタビューで、高山明さんと小澤慶介さんとお話しした時にも最後そんなような話題が出た。 リニアな時間感覚と別のところにどうやっていけるのか。

http://www.cinra.net/interview/2013/04/12/000000.php

 

演劇はどうだろうか。演劇は「今ここ」を宿命付けられている芸術ジャンルではある。ではその「今ここ」をどのように受け止め、どう投げ返すか、というのが演劇作家の仕事のひとつだとも思うのだが……単にそこで、ドキュメンタリー的に、メタ的に、「今ここ」を暴露するということではなくて、そのような「今ここ」の顕在化とすれすれの際どいところで、やはりあの、フィクショナルなものが立ち上がっていくのがスリリングだ、と感じているからこそわたしは演劇を観ているのかもしれない。このあたり、まだうまく言えないけれども……。きっとポスト・ドラマ演劇以降のフィクションはそのようなものに進化していくのではないだろうか。クンステンで幕開けしたらしいチェルフィッチュの『地面と床』ではそれが見られるのではないか、という予感がちょっとある。

 

そしてなんとなくこのあたりから、範宙遊泳『さよなら日本』になぜ無機質なレディ・メイドの椅子が登場していたか、とかも紐解いていけるようにも思う。というか山本卓卓くんが今日ブログに書いていたことは、最近俳優について考えていることに関して大いに示唆を与えてくれるものだった。

http://yamamoto-taku2.blogspot.jp/2013/05/2007.html

 

 

自分は実は演劇に苦手意識があるのだが……という話を聞くことが時々ある。やっぱり演劇は映画に比べてあつくるしいというイメージが根深くあるようだし、実際、未だにあつくるしい演劇も多い。そういうのが好き、という人も多いのだと思う。でもわたしはそういう押しつけがましいあつくるしさが苦手でもある。もっと、そっけなくいてほしい。こんなにがんばって「今ここ」に存在していますよ、みたいなのは、正直、わたしにはどうでもよいことに思える。それよりも、そこから何かしらのフィクショナルなものが立ち上がっていく瞬間が面白いと思う。そして俳優とは、それを可能にする媒介者ではないか。