BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130521

 

噂というのは、この界隈に住んでいたとある女性がみずから命を絶ったという話だった。そのひととは何度か呑んでいた。今年に入ってからは呑んでいない。去年の暮れに、わたしが身体を壊してしまったのと、年明け以降、公演に関わったりなんだりでずっと忙しかったこともあって、なんとなくすれ違いが続いていたのだった。一度、路上で見かけたような気がしたけれども、わたしは自転車で急いでいたので振り返らなかった。

 

わたしが彼女と仲良さそうに見えたからか、あいつと寝たのか、と噂されることもあったけど(寝てねーよ)、いっそそうなってしまったほうがよかったのかも、とか考えてしまったりもする。肉体関係があるくらい親密であったら、せめて死ぬ前に相談してくれたかも。どうだろう。とにかく今さらもう遅い。こんなところで引用されても迷惑かもしれないが、二騎の会の『雨の街』にもそんなセリフがあったように、人間はなぜか、死んでから初めてそのひとのことを想ったりする。どうしてでしょうね。もう手遅れだというのに。

 

彼女は一見強い性格のように見えたので、自死してしまうなんて意外だ、という意見ももっともだと思うけども、わたしは一度、彼女の過去の話を聞いたことがあって、それははっきり言って、自殺の原因としては十分すぎるほどのものではあったと思う。ここに書くわけにはいかないが。とにかく彼女がその秘密を打ち明けてくれたことで、我々は、何か共通の傷を抱えた盟友だ、などと勝手に感じていたのだった(愚かにも)。そして様々な話をしながら、それをゆっくりと癒していけるだけの時間はまだまだ無限にあるとさえ思い込んでいた。結果的には、そんな時間は全然なかったということになる。

 

なんだか怒りに近い感情が湧いてきたけども、誰にぶつけていいものかわからない。彼女に対して怒っているわけでもなかった。とにかくひとりになりたかったので、ゆうべは、泊まっていた友人とはテラスでビールを一杯だけ飲んで、自室に籠もった(ごめんね)。実は英語力上達のために(という名目で)時々やっている、海外のMMORPGを立ち上げたら、時々チャットしてくる人に一緒に旅するかいと誘われたけど、今日はとても悲しいことがあったので無理と言って断った。その人物が、男なのか、女なのか、何人なのか、母語が何語なのかも、わたしは知らない。なんとなくその人も英語ネイティブというわけではないような気がする。とにかくそれでひとりで黙々と、蛇の頭をした化け物を何匹か殺した。すぐに嫌気が差してしまった。突然蒲団に突っ伏して号泣してしまった。こんなに泣いたのいつぶりかわからない。泣いたからといってこっちが勝手にすっきりして終わるだけだと思うとさらにくやしさが増す。

 

 

起きてから、どうも熱があるようだった。吐き気もあった。誰とも話したくはなかったから、誰かに甘えるわけにもいかない。少し無理をして自転車で弘明寺まで行って、温泉銭湯の仮眠室でずっと寝ていた。恐ろしいくらいにぐったりと寝た。

 

人を殺すようなことだけはしたくないのだ。その片棒はかつぎたくない。とか思っている。しかし結果的にこの世の中は彼女を絶望させたのだろうし、わたしもそこに荷担していたのだろう。……いや、荷担、とか、世の中、とかいうような思考の枠組み自体が甘っちょろいのではないか。そんなふうに大雑把に考えるのはよくないのではないか。

 

結局のところ、社会とか、っていう大枠がある以前に、人間と人間がいる。それだけでしかないのだとしたら? そして結局のところ恐ろしいのは、公権力による圧迫以上に、一見もっと親密にも見えるような場所での圧迫なのではないか。人間の嫉妬や執着や所有欲や、誰かをコントロールしたいといった欲求が、人に暴力をふるい、時には回復不可能なほどの傷を負わせる。そういった暴力とどのように闘い、あるいは、躱していけばよいのか。自分が結婚とか恋愛とかをしたくないと思っているのも、ちょっとそれがある。愛(とその裏返しとしての嫉妬や執着や所有欲)に対してフラットな存在というものが必要なのではないか、とか。人間の情念は、生きていくうえでのエネルギーと表裏一体だが、どこかでそれが無効化されてしまうような、光でも闇でもなくその両方でもありうるような存在。かつては神様がその役割を果たしていたのだろうけども、神はもう150年くらい前に死んでしまった。

 

逆にいうと、神が死んでからまだ150年くらいしか経ってないのか……。日本ではまだ70年も経ってない。いや、そんな神聖なものでなくても、寅さんみたいな俗物がいればそれでいいのかもしれないが。ところが、寅さんも死んでしまったのである。

 

 

ふっと思うけれども、「東京」というのは素っ気なくて冷たいが、ある種の安全な皮膜としても機能しているのかもしれない。しかし横浜にはそれがないのだ、とこの界隈で夜な夜な呑んでいると感じる。そういう意味でのセイフティなネットがないから、落ちる時は一気に落ちかねない。実際この町の歴史を紐解けばすぐにそうした話は出てきてしまうのだから。

 

そしてたぶん、「強さ」ではそれを克服することはできないのだと感じる。傷つきやすい部分を、どんなに強さで塗り固めようとしても、むしろますます壊れやすくなってしまうのではないか。ある日、突然、クラッシュするように。では、どうやって、生きていけば?

 

 

10代の頃に読んだ阿佐田哲也の『麻雀放浪記』には人生観を形成するうえで大きな影響を受けたと思う。あの第一巻の最後の名場面で、幻の役満・九蓮宝燈をアガッて事切れた出目徳を、ドサ健は「死んだら負けだ、死んだやつは裸になるんだ」とか言って身ぐるみ剥いでドブに捨ててしまう。もちろんそれは死者に対する冒瀆なのだが、同時に、彼なりの勝負師に対するリスペクトの表明でもあるのだった。死んだら終わり、はいそれまでよ、ということはだからちょっと思ってしまっている。

 

生き残った人には生き残ったなりの人生が待っているし、それは明日も明後日も続いていく。つらかったりたのしかったりするだろう。それを淡々と営んでいくしかないし、そうする。もしかすると彼女の顔や名前も忘れてしまうかもしれない。きっとそうなる。でもその存在の痕跡は完全にはイレイズできないとも思う。

 

自殺の一報を聞いた時、とにかく信じられない、というショックのあとに頭によぎったのは、「間に合わなかった」という言葉だった。たぶん自分は「書く」という仕事を通じて、彼女を、彼女のようなひとを救えるとか思っていたのだろう。劇評を書きたいと思うのも、それを通じて、人が、何かしらの作品に出会うことが、人生を変える(もしかしたら救う?)ことになるかもしれないと信じているからなのだ、おそらくは。それが甘ちゃんなのか傲慢なのか何なのか、まだわたしにはわからない。やってみるしかない。批評は、よく言われるようにいつも「遅い」のであり、まさに手遅れになりやすい書きものであるには違いない。でもなんだかわたしにはむしろその「遅さ」こそが信頼できる日がいつか来るような気がしている。速いもの、新しいものは、強いものとの親和性が強い。それは輝かしい現在を照らし続けるだろう。最先端や最新鋭を賛美し続けるだろう。ポップでキャッチーなものを持て囃し続けるだろう。それもひとつの大事な仕事ではある。でも弱っているもの、今にも消えそうなものは、そこからははじき出されてしまうかもしれない。彼女たちには、その世界はあまりにも眩しすぎる。

 

実はむしろ、世界の大部分は闇に満ちているのではないかとも思う。範宙遊泳『さよなら日本』にもあったように、誰しもがどこかしら呪われていると言えるのかもしれない。そっちのほうにわたしは近づいていきたい。興味本位ではなくて、何かどうしても引き寄せられてしまうものを感じている。おそらくは速度を捨てることになるだろう。ほとんど動いていないかのように、ある闇の中にじっと留まって、ゆっくりと視界を馴らすことで初めて見えてくるものがたぶんあるだろうから。それはどこにでもあるわけではない。でもかなり様々なところに偏在はしているのだ、きっと。それを直接言葉にするのかどうかは別にして、それを見極める感性は持っていたい。そうしてやがて速度が消えた時、初めて彼女に届くものがあるのじゃないか。

 

わたしは何を言っているのだろうか。あまり論理的とは言えない。とはいえものすごく直感的なものが働いている。

 

速度を失った言葉や作品は、あまり人に夢を与えるとは思えない。夢を受け取れるのは、やっぱりほとんどの場合、若い人たちにかぎられてしまうと思う。老いていって、残された時間よりも、歩いてきた時間のほうが長くなった時、人はもう(少なくとも若い頃のようには)夢を抱かないのだと思う。それはつまり白馬に乗った王子様という解決法を捨てるほかないということでもある。人々の耳目は輝かしいものに集められ続ける。そこからは見棄てられてしまった存在。美貌は失われ、人生を逆転させることのできるような一発が訪れるとも思えない。でも、そこから始まるものだってあるのではないか。批評は果たしてそちらのほうにいけるのだろうか? 無闇やたらと新しいもののお尻を追わずにいられるのだろうか? どんな時間の中に批評は存在できるのだろうか? いずれにしてもこれから何かを書く時、彼女の影が時々よぎってしまうには違いないし、その存在の痕跡を無視して書くことはきっとできない。

 

 

生き残ったもののエゴで天国とか地獄とか言いたくもない。とにかく彼女は死んだ。そのことを思うと吐きそうになる。ケータイに残っているメールの履歴を見るととてもまともに立ってはいられない。なのに沈黙するという態度もわたしはとらなかった。とれなかった。人には人なりの喪の服し方がある。冒瀆と弔いとは紙一重なのだと思った。別の仕事をしていたら、要するに、書く必要がなく、次の1文字をどうしても書かなくてもよいのであれば、わたしは沈黙していただろうか。とにかくわたしは書かないわけにはいかない。それも別世界について書くのではなくて、あくまでこの世に現実に存在する(とされている)作品やら人間やらについて書かなくてはいけない。その世界には彼女はもう生きた状態としては存在していない。