BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130517 雨の街

 

金曜日。この日は、金沢八景弘明寺で京急LOVEな過ごし方をして、ずっと仕事をしていたので満足している。もしかすると怪我をする以前よりも、人生を楽しめるようになっているかも。というかほとんど「寂しい」と感じることがなくなった。今だけの現象なのかしら?

 

 

 

木曜日に観た二騎の会『雨の街』の感想は、まずはなんだかとてもぼんやりしたものにならざるをえない。だから何か他のものになぞらえたくなってしまう。別役実を想起する人はけっこういたらしい。わたしは特に序盤は安部公房の『砂の女』を思った。それからエンデの『はてしない物語』や『モモ』。あるいはムーミン谷のこと。

 

印象批評、という言葉があるけれどもこれこそ本当に印象批評かもしれない。宮森さつきの戯曲と、多田淳之介の演出、とかいったそれぞれの領分についても(あえて)分けて書いていません。そして俳優の名前も現時点では書いていません(素晴らしかったと思っているけど、これもあえて)。

 

 

まず会場に入った瞬間に、わ、これは別世界だ、と思うような空間になっていて、ノイジーな雨の音(あるいは雨音のようなノイズ)が聞こえている。静かに開演を待った。

 

最初の語り口から「違和感」がもたらされる。それでもそのまま「雨の街」に連れていかれるのだが、登場する彼らの素性は不明のままであり、「違和感」は簡単には消えない。いったい彼らがどうしてこの街にやって来たのかもわからない。そのため戯曲が観念論に流れているのではないかと思えるところもある。すべての言葉に食らいつかせるようにはできていない。印象派の絵のように言葉が置かれて像をつくり、時間がゆっくりと流れていく。ただその時間はあまりリニアに流れている感じもしない。「ここでは幾らでも時間がありますから」とか語られながらも、そのいっぽうで時間はじわじわと「商人」に取り上げられていく。終わりはある。けれど、その終わりまでの時間がどのくらいあるのかはわからない。「それはずっとずっと先のことですよ」とも語られるのだが……。

 

何度も登場する「お茶」のシーンは、この雨の街では大きな意味をもっている。「旅の人」はそのためにやってくる。彼の登場によって抽象的な絵に強い色彩が加わる。それでもなおいっこうに、男も、女も、正体がわからない。ただ、女が雨を見ている姿が浮かびあがってくる。男はその雨を見ている女を見ているが、けっして、雨自体を見ようとはしない。

 

どうして男は雨を見なかったのだろうか。

 

 

劇場の外に出たら雨で、雨の街になっていた。静かな雨だった。夏だったらこんなふうには降らないだろう。それにしてもあの「雨の街」はどこにあるのか。それは今までも心の中のどこかにあったのかもしれない、と思えるような親密な空気があった。こうして舞台として可視化された以上、たぶん今後もまたいつかこの街にいくだろうなという気持ちになる。そこにはきっとあの女のように誰かがいるのだが、それは誰だろう?

 

とかとか、とめどなく考えてしまう。

 

 

不条理ものというと、なによりもまず「迷い込む人」の物語であるわけだが、『雨の街』は「待っている人」の物語でもあった。しかもここでは特に何かが期待されて「待っている」わけではない。彼女はゆっくりした時間の中でただただ失っている。何も得ようとしない。実際にたしか彼女の口から「待ってはいません」とも語られたと記憶している。

 

ベケットの『ゴドーを待ちながら』に代表されるように、演劇では「待つ」という行為や状態はとても大事なモチーフとして扱われるようです。)

 

よくあるドラマでは、過去になんらかの傷を受けたり喪失感を抱いたりした未亡人的な人物が、やがて新しい出会いによって触発されて新しい人生へと一歩を踏み出す……とかいう展開が待ち受けているものだし、観るほうもそれを期待している。つまり未亡人(象徴的な意味で)とは、次の新しい夫を迎え入れるために「待っている」状態ともいえるのである。しかし『雨の街』の女は少し違っていて、彼女がこの街を出ていこうが、出ていくまいが、ただただ雨が降っている、というその(抽象的な)事実がまず描かれている。

 

そしてこの物語は、最終的に「ループ」が示唆されている。ループとはつまり、何も変わらずに繰り返される反復なのである(その点で同じ反復でも「リフレイン」とは決定的に異なる)。

 

そういえば雨のやむ瞬間があった。あそこには何かしらの(変化の)可能性があったのかもしれない。

 

 

小説や映画では、まずもって物語は、誰かの視点にフォーカスしようとする力が働きやすい。ただその存在を記述する、描写する、といったことにはあまり向いていない(とたぶん思われている)。要するにドラマが必要とされるのである。ドラマとは、ある内面をもった人物が(その心情を露骨に表に見せるにしても見せないにしても)、何かしらの外的なもの(人や場所や事物)と出会い、それによって心を動かしていく……というその軌跡を追体験(代理体験)させることによって観る者に共感を促す仕掛けになっている。それがドラマティックと呼ばれるものの正体なのだろう、おそらくは。

 

しかし『雨の街』はそうしたドラマティックな動きにはそう簡単には流れない。全体としての結構(異世界に行く、という)はあるけれども、ひとたび雨の街に足を踏み入れるやいなや、まずそこに存在しているものにひたすら寄り添おうとするようなところがあるのだ。例えばあの女と、雨と、お茶と。彼女は「すみません」や「お茶いれましょうか」を繰り返すばかりである。ここにも「ループ」がある。それは「停滞」と言い換えてもいいのかもしれない。「停滞」や「退屈」がおそらくこの戯曲の最初のテーマになっている。雨の街には何も娯楽がないのだ。要するに、ドラマを生み出すような要素は極力取り除かれている。

 

「旅の人」が現れるのが、ほとんど唯一の刺激といっていい。しかし彼もまた(旅をしまくっているにも関わらず)元に戻れる方法は知らないのだった。それが急速に男の興味を失わせる。そして「旅の人」はといえば、ただただ、お茶が美味しいと言って女を褒め称えるだけなのである。それは女の気を惹こうとしているわけでもない。「旅の人」はもうすでにそのことを諦めているようである。

 

どうやら雨の街ではいろんなことがすでに失われている。ミニマムで、ミニマルな世界。それでも「この街にやってくる人たちは後を絶ちません」。……それはなぜだろうか? 

 

 

「旅の人」が語るように、お茶にいきなり一杯目からミルクを入れるようでは、お茶本来の味がわからないのかもしれない。何日か前の日記に書いたように(http://bricolaq.hatenablog.com/entry/2013/05/08/035904)退屈になるのもけっこう難しい。退屈のない人生というのはそれはそれでさもしいものかもしれないと思った。

 

女がそこにいる、とか、雨が降っている、ということを、人はどれだけ感受しているのだろうか。

 

 

つい数日前まで上演されていた範宙遊泳の『さよなら日本』で、「犬や猫には感情があるのかな、見ているほうに感情があるだけじゃないかな」というようなセリフがあったけども、あれは平田オリザの現代口語演劇の理論を思い起こさせるものだった。つまり役者に内面があるかどうかではなく、「そう見える」ことこそが演劇には大事であり、それが観る者の心に反応を起こさせる、という理論である。

 

それでいうならば、(犬や猫と違って)雨にはもちろん感情はない。けれど雨の街では、まるで雨に感情が含まれているかのような噂が語られる。本当にそこには感情があるのかもしれない。

 

そもそも感情とはなんなのか。誰のものなのか。

 

 

 

雨の街を渋谷まで歩いて、そのまま池袋に出て、立教の正門の前で学生時代のゼミの先生と同級生と待ち合わせた。先生に案内されて図書館に入ってみた。大英帝国の美術館かと見まごうくらいの豪華な建物になっていて驚く。それから学生時代にゼミのあとにほぼ必ずいっていた「ふくろ」に呑みに行く。といってもそんなに懐かしくない(今でもよく行くから)。10年以上ぶりに会った友人は、太っていた。思わず第一声で「太ったね!」とか言っちゃったけど案外そういうのって傷ついたりするものなのかしら。

 

池袋西口のこの界隈には10代の半ば頃からよく出入りしていたので、もう20年くらい来ていることになる。街にはそれなりに変化がある。ずいぶん治安もよくなった。でも雨が降っているとそんなに何も大して変わっていないようにも思えてくる。