BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130515 さよなら日本その2

 

範宙遊泳『さよなら日本』2回目の観劇。1回目の時は、とにかくこれはヤバい……という興奮のほうがなにより勝っていたけれども、今回はある意味冷静に受け止めて、しかしだからこそなのか、ラストのあの「夫」の文字を中林舞が逃がすまいとしてみんなで支える、というところから実際夫が現れて声なき叫びをあげるまでの一連のシークエンスで(なんて恐ろしく美しいのだろう……!)涙が流れるのを止められなかった。でもあのシーン、なんか、滑稽でもあって、そこがいいなって思う。

 

一週間前に書いた感想(http://bricolaq.hatenablog.com/entry/2013/05/13/224226)でアップせずに寝かせたというのは、俳優の演技に関することだった。チェルフィッチュ岡田利規が『わたしたちは無傷な別人である』の時によく使っていた「コンセプション(受胎)」という概念を手がかりにして、この作品の演技について読み解いてみたい、と考えていた。

 

というわけで、特に俳優の演技スタイルにフォーカスして観ていたつもりではあったのだが、結論からいうと、まだ確信が持ててはいない。

 

 

範宙遊泳をはじめとして、今の若い世代の演劇の身体を語るうえでひとつ鍵になるなと思っているのは、「ネオテニー(幼体成熟)」という概念で、これはもちろん桜井圭介が提唱した「コドモ身体」とも関係してくるし、さらに遡るところでいえば60年代の「特権的肉体論」に対してどのような距離感をもつのか、という問題も当然浮上してはくる。

 

ただこの日の『さよなら日本』を観ていて気になったのは、そうしたある種の幼児性よりも、むしろ彼らの成熟のほうであった。公演も終盤に差し掛かり、評判を呼んでお客も増えてきたということもたぶんあって、彼らも自信をもって演技をしているのが伝わってきたので、むしろ成熟度合いや舞台の強度のほうを感受してしまったのかもしれない。

 

たしかに強度はある。フィクションである。けれどなんだか、彼や彼女たちの「素」の魅力のようなものもまた舞台の上に載せられているようにも感じるのだった。ここがポイントかもしれない。「してみせる」といういやらしさがこの舞台にはほとんど感じられない。動画を撮っていてだんだん熱くなって「チョベリバ!」とか言ってキレはじめる大橋一輝も、「鋭敏に!鋭敏に!」とか言いながらミミズを演じている埜本幸良でさえも、なんだか「本気」に見えちゃうのである。しかし絶対的にこれは「演技」なのである。そのへんにこの舞台の凄みがあったようにも思う。

 

あとやっぱりあのレンタルビデオ屋でのシーン、感動的だったなあ……。というか様々なシーンが印象的で、何度も反芻したくなってしまう。

 

 

というわけで、特に結論もないけど、いつかにまた、続く(かも)!

 

 

 

 

そのあと、一緒に観に行った横浜のパイセン薫子氏からいろいろ感想を聞きながら、野毛の路上でビール。相当面白がってくれたみたいでよかった。そう、やっぱり、百聞は一見にしかずというところがあるし、こういう作品を観れば、「演劇」に対するイメージもずいぶん変わるよね、と思う。