BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130508 さよなら日本

 

朝、タクシーで磯子の病院へ。看護師さんたちに、「どなたですか?……あっ、あの時の!」と驚かれるくらい、劇的に顔は変貌した。目の検査。まだ奥の方の傷が残っていて、まあ角膜が剥がれることはないと思いますけどまた来月見せに来てくださいと言われて少しへこむ。麻酔を入れたので左目の視界がしばらくぼやけた。

 

ふらふらしながら磯子駅まで歩いてJRに乗り、いっそこのまま大船経由で鎌倉に行こうかなあ、と思ったけど、今の不安定な体調であんま勝手のわかんない土地に行くのもなー、と思い直して結局いつもの金沢八景の喫茶店へいった。夕方までそこで仕事。

 

京急で横浜に出て、仕事帰りの某嬢がちょっと路上で呑みましょうというので、彼女はビール、こちらはノンアルコールビールでSTスポットの上の広場で軽く乾杯して、ずいぶん暖かくなったなあ、でも今がなんの季節なのかよくわからないやと思った。さくっと一杯で解散して範宙遊泳の『さよなら日本』へ。

 

 

 

『さよなら日本』は素晴らしい作品だった。

 

範宙遊泳・山本卓卓はいよいよ本気を出してきたなと思う。どうしてそうなったのかは謎だけれども、とにかく何らかの変化が彼(ら)に萌したみたい。

 

初めて範宙遊泳を観たのって確か2010年7月の『ラクダ』で、その頃からセンスの良さは感じたけども、逆にそのセンスに頼りすぎるきらいもあり、また彼なりの主題がどうやら眠っているらしいにも関わらずそこから目を背けて逃げているのでは?、と感じてしまうこともよくあった。照れもあったのでしょう。あるいは時代のせいもあったのかもしれない。それが昨秋の「東京福袋」に出現した短編あたりから、字幕と映像を用いる今のスタイルになり、とほぼ同時に、変な言い方だれけども、舞台の「目の色」が変わったように感じた。無視して通り過ぎることのできないような「恐ろしさ」がその舞台に現れてきた。

 

 

そこで萌芽として見せた手法をさらに洗練させて膨らませたのが前作『幼女X』だった。この作品については当時、批評家・佐々木敦twitterにこう書き記していた。

 

「或る意味ではチェルフィッチュの別人への下の世代からのアンサーとも取れるかもしれない」

 

ここでいう「別人」とはチェルフィッチュの『わたしたちは無傷な別人である』の略称のことで、この言葉を引き継いで言うならば、今作『さよなら日本』は前作にも増してますますチェルフィッチュを思い起こさせるものだった。STスポットという空間の影響もあるとはいえ。といっても、一時期すごく蔓延したであろうあのダラダラ喋りや「これから××を始めまーす」という形だけを模倣したエピゴーネン(猿真似)では全然ない。範宙遊泳・山本卓卓は、チェルフィッチュ岡田利規の持つある種の感覚、この世から疎外されてしまった「幽霊」や「悪魔」のようなものに対する感覚の、もしかしたら最大の継承者といってもいいのかもしれない、実は。といっても山本の表現センス、とりわけサイケデリックな色彩感覚とニヒリズムはかなり独創的だから、全然チェルフィッチュ・チルドレン感はないんだけれども。

 

『さよなら日本』の登場人物たちは、妙な動きをするあの生き物(?)や、どこかから落ちてきて拾われる文字(?)も含めて、みなこの世界から(古い言い回しでいえば)疎外されてしまっている。安住の地を失って迷子になっているというか。現実世界から幽離しているというか。この作品に登場する誰もが、わかりやすいハッピーにはどうもご縁がないらしい。かなりひりひりしている。観ていてくるしくなるところもある。この舞台にあるのは、悪夢、亡霊、復讐、服従、不条理、迷子、いかがわしいスピリチュアル、通じない電話、嫉妬、油、救いのないセックス、椅子……そんなものばかりなのだ。それに「町」が話の中で登場するのだが、まるでおとぎ話に登場するそれのように現実感を失っている(ハメルンの笛吹きに子供がさらわれてしまう「町」みたいな感じ)。いっぽうで「祖師ヶ谷大蔵」という具体的な地名があるくせに、なんだかこの世ではないようなのだ。

 

まだ公演が15日まで残っているし、わたし自身もう一度観るつもりなので、今は詳述は避けて曖昧な言い方に留めたい(上に書いたくらいはネタバレしても許されるレベルかなと)。曖昧な表現にするとどうも感触しか残らないので、書いていて歯がゆさを感じないでもないのだけれども、とはいえこの作品にとってこの「感触」は重要であるような気がするので、表面をなぞるようにして書いてみるのもいいかもしれない。そもそもSTスポットに入った時、いつものSTスポットと何か違うぞ……と感じさせるあの感触。そして例えばある人物が迷い込んだのは「どの世界」なのかという疑問。彼はどこから声を発していて、その求める相手はどこでその声を待っているのか。しかもその声はあえなく無視されてしまう。この存在の消滅、記憶の隠滅は、この作品全体にかなしいトーンを降臨させてしまう。しかし彼が登っていくあのシーンは……。というふうに、どのシーンも、単純な一枚の感情で受け止めることができない。

 

見終わってしばらくフリーズしてしまった。動こう、という気持ちが起こらなかったのは、余韻を楽しんでいました、とかでは全然なかった。なんだか睨み付けるようにして、俳優たちが去ったあとの舞台を観ていたのだが、もちろん怒っていたわけではない。

 

なんだか別の世界に連れていかれたような心持ちになった。この「日記」を書いているのは実は観たこの日から5日後なんだけれども、未だに、元の世界に帰れた気がしない。

 

その感覚は、わたしが怪我をして、世の中との距離感が少し変わってしまった、という個人的な事情とも無縁ではないのだろうとは思う。怪我をして世の中での居方が変わるというのと、『さよなら日本』を観て世の中での居方が変わるというのはそもそも似ているのかもしれない。それに、この作品は、観た人それぞれの「今の状態」にアクセスし、そこから何かを引き出してしまうようにも思うのだった。

 

あえてこういった言い方をするけど、「たかが演劇」を観て、いるべきはずの安定した世界をロストしてしまうなんて馬鹿げているとは思う。冷静に我が身を俯瞰してみるならば。だけれどもある種の作品を観ること、いや観てしまうことは、安全地帯から鼻先でふんふんと鑑賞するのとは全然違うもっと抜き差しならない体験になりうるし、実際そうなっている。そしてそういうことがなかったらわたしは「たかが演劇」を観るなんてことはとっくにやめてしまっているだろう。生きていないかもしれない。

 

この作品が、様々な人々にどうやら波紋を投げかけているらしい(と感じる)のは、やはりこうしたのっぴきならない作品を世の中が求めているってことの証しでもあるのではないか。

 

「結局作品として何が言いたいのか?」という問いかけに対しては『さよなら日本』は案外無力かもしれない。その問いかけはそもそも罠を含んでいるわけだし、まあ今回は乗らなくてもよいでしょう。強いていうならば、結局みんな死にますね、というメッセージはちょっとあるけど、それも単に平べったい絶望ではもちろんないし、希望だなんて簡単に口に出して済む話でも到底ない。「さよなら日本」というタイトルにしても、ではこの国を戯画化して安全地帯から批判する、というありがちな図式に収まりきるものではない。地震や原発問題がわかりやすくこの作中に描かれたというわけでもないのだから。そもそも今作が女性の性生活にフォーカスしているせいもあるのか、語り手(=この戯曲の書き手、つまり山本卓卓)がどこにいるのかもなんだかよくわからない。かといって俳優たち自身のエピソードをそのまま語っているということはまずありえないだろう。誰かの記憶に依拠するというよりも、フィクションとしての濃度が高いのではないかと感じる。そんな中にあってもっとも作家自身の気配を感じさせるのは、STスポットの白い壁面にプロジェクションされるあの映像であるのだが(彼がつくっているらしい)、しかしこの映像も、雄弁であるというよりはむしろひたひたと戯曲の言葉を追走するように、あるいは逆に遅れてやってくるそれを待ち構えるかのように、ある距離感と体温の低さとを保っている。それでいて洗練されている。かっこいいのだ。かっこいいのは大事だ。なんていうか……不思議なエロスを感じさせるのだった。変な話、この舞台となら寝てもいいと思った。もちろんそんなことは不可能なのだが。(だけど本当にそうかしら?)

 

 

 

ちなみに、俳優の身体の在り方に関することとして、とても重要なこと(たぶん演劇史的にも)を考えているのだけれども、それはもう少し、寝かせます。また観るし。

 

続く!

 

 

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