BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130427 ダンスフェス

 

やはり連日の東京行きは身にこたえたようで、しばらくダウンしていたけども、日記を再開します。この日は、こまばアゴラ劇場でのflat plat fesudesu vol.2、BプログラムとCプログラムを観劇。

 

終演後は、横浜から駆けつけた薫子たちとごはんを食べに行った。ほんとはパクチーが食べたいね、と話をしていたのだけど店が混んでいて入れず、やむなく、もつ鍋に。美味しかった。横浜までは薫子が送ってくれると思って安心して、ビールを少し飲んだ。

 

 

 

【Bプログラム】

ピグマリオン効果『よい子は寝る時間』

快作だった。進化したヒゲダンスという感じで、ユニークで、ユーモラスで、作品をつくることの初期衝動に溢れていた。振付もキレがあってかっこいい。ドラムの生演奏やDJ&VJも非常にアグレッシヴで、彼ら(ピグマリオン効果)なりの世界への挑戦状をサポートしていた(彩っていた)印象。みんなムサビ生なのかしら?

 

大根にまつわるとあるシーン、手淫のメタファーにも見えるのだが、それを女子たちが「やれやれ」といった感じであしらい、あっさり無効にしてしまう感じもよかった。

 

ダンスとして、これが「新しい」のかどうか(そして「新しさ」が必要なのかどうか)、あるいは既成の何かに対してクリティカルかどうか、十全に判断し語る言葉をわたしは(演劇に比べるとはるかに)持っていないけれども、こと「難解な顔」をしがちなコンテンポラリーダンス界にあって、こうした勢いと喜びとユーモアに溢れた(しかし技術が蔑ろにされているわけではない)パフォーマンスはぜひ評価されてほしいと思う。

 

とにかく今回は、お客さんの記憶に「ピグマリオン効果」の名前はかなりインプットされたのではないか。やっぱりこういうフェスで「あいつらは何者だ……ざわざわ」みたいになるのは面白いし大事なことだと思う(実際ちょっとそうなってたし)。今後もっと様々な要素が混入してきた時に、彼らがどのように可能性をひろげていくのかとても楽しみです。

 

 

 

▼横山彰乃『ジオコスコモス』

その直前のピグマリオン効果に心をもっていかれたせいで、なかなか入り込めず。しかし、なんだろうこの暗さ。素通りできないものがあった。そんなに暗くなくてもいいのではないか、と思いつつ、いやいや違う文脈(場)で見たらまた違うかも、とも思いつつ、この感想はCプロの東京ELECTROCK STAIRSに続く……。

 

 

 

▼たかくらかずき VS Aokid

アイデアは面白かった。映像を通じて繰り広げられる、たかくらかずきの創作物パフォーマンスは、そのままETV(NHK教育テレビ)とかに登場してもおかしくない感じ。ただ「VS」を銘打つのなら、Aokid氏の体現する一種の幼稚性に対して、もっとごりごりと神の手的な、強引な振る舞いをしてもよかったのではないか。あといっそのこと、最後まで匿名性を守ってもよかったとも思う(つまり画面に登場しなくてもよかったのではないか)。

 

 

 

▼岩渕貞太

やはりこういうフェスの性格上、すでにできあがっている客席のテンションとどのように付き合うかが問題になるはず。しかし岩渕貞太は、そうした場のテンションに流されず、凛とした(自律した)舞台をつくることに成功していたと感じた。といっても、観客や空気を無視したというわけではなく、むしろ逆。空間や観客との関わりを模索してきた彼だからこそ、その空間を味方にできたのではないか。

 

今回は、ここ最近の数作のようには、「音/映像との関わり」といった明瞭な実験的コンセプトを(見える形では)示していない。その意味では「素のダンス」として見られるという、新たなチャレンジになった。別の言い方をすれば、それは「実験」という名目が通用しないフラットな場でもある。

 

彼の動きはまるで虫のようだった。それでわたしは『変身』のグレゴール・ザムザのことをちょっと想像したのだが、これが、部屋の中に閉じ込められた半人半虫という不条理な世界、と考えると、つまりは「物語」が存在するとしたら、どうなるのだろうか? 例えばここに「虫になりかけた兄のことを想っている、だが最終的には残酷さから逃れられない妹」のような存在がいたとしたら? ダンスというものが、音、映像、空間とだけでなく、物語と関わるとしたらどのような関係性がありうるだろうか。幾つかの例は知っている。得てしてそれは極めて抽象的なイメージ(何かを表現している)になりがちなのだが、できればもっとプラグマティックな形でのそれを観てみたい。……とかとか、いろいろ考える舞台だった。

 

 

 

【Cプログラム】

▼Q『最新の私は最強の私』

市原佐都子氏はいつのまにかとてもタフな作り手になっていて、本人は当パンにも「謙虚な気持ちでつくりました」的なことを書いていて、それは実際そうなのだろうと思うけども、とはいえ現在の20代半ばまでの作り手としては「最強」名乗っていただいて全然かまわないと思った。その世代に特有のおどおどした手つきというのはもはや全然ない。言い訳も妥協もない。F/Tでもかましてくれるでしょう。かよわさと危うさを体現する飯塚ゆかりと、かなり異物的な要素を持ち込んでくる角梓の凸凹コンビもいい感じ。

 

発せられる言葉に嘘がない。といっても、これがすべて誰か(市原さん?)の記憶のまま、事実のまま、ということではなく、もちろんフィクションなのであって、にも関わらず、嘘がない、と感じさせるのは、おそらく、「どの言葉を舞台に載せられるのか?」を峻別する嗅覚に彼女は長けているのだと思う。

 

政治やら社会やらを説明的にぺたっと貼り付けたような言葉は全然ない。ただ身の回りを取り巻く様々なガジェット(靴下とかGLAYとか)について語られるだけ。にもかかわらず、この世の中のある凝縮された部分がまさにペニスの顔をして迫ってくる。こわい。だけど5000円は欲しい。その恐怖と欲望との矛盾は、彼女たちの可傷的な身体を通じ、その空想をひろげて、あの「サバンナ」へと至る。そこでは人間社会の常識は通用しない。ただ、それがまったくの空想とも思えないのだった。実はサバンナへの入口はぽっかりとどこかにあいているのではないだろうか。……とかも感じさせるような作品だった。

 

カセットテープと笛が効いてましたね。

 

 

 

 

▼東京ELECTROCK STAIRS

KENTARO!!のダンスは、振りが複雑なこともあり、結局はKENTARO!!自身がいちばんうまく踊れるのではないか、というか、他の人がそれを踊ろうとすると、どうしても「踊らされてる」感が強く出てしまうのではないか、と今回の舞台を観て思った。

 

しかし中盤以降、横山彰乃が気になりはじめて、ずっと彼女を見ていた。特に彼女が優れてキレがいいというわけではなかった(それなら他にもっとキレのいいダンサーがいた)。ただ彼女のダンスには、踊るための内発的な動機があるようにも感じられて、それは実は単に、すでにBプロで彼女のソロを観てしまったせいもあるかもしれない。それは否めない。けれど、なんだか見てしまう、気になってしまう、というのは、舞台では大事なことだなとも思う。

 

それにつけても、KENTARO!!のラストダンスは、こう言ってよければ、魂を感じさせるものだった。それは彼自身の魂でもあるけれど、このフェスに参加した人々、観客、それぞれの魂でもあるというか。とてもよかった。