BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130424 てんとてん

 

ひさしぶりの外出。励滋さんに車で迎えに来てもらって、十六夜吉田町スタジオのマームとジプシー最新作に向かう。長いタイトル。『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。 そのなかに、つまっている、いくつもの。 ことなった、世界。および、ひかりについて。』 何度か読まないと覚えられないけど、何度か読めば覚えられる。それのBバージョン。

 

ヤバいものが今まさに生まれようとしている、その場所に立ち合っているのだと肌身に感じた。細胞がざわめいて悦んでいるのがわかるくらい。きっと得体の知れないものを前にして興奮して歓喜しているのでしょう。この日記の写真のうしろに《メモ》を置いておきます。

 

 

終演後は雨の中を野毛まで、やや介助されながら歩いて、古い建物をリノベーションしたホルモン屋の2Fで気心知れた人々と肉を食べまくった。ひさしぶりの外での、他人との食事。最初に肉を食べた時にはちょっと涙がちょちょぎれた。お通しがハマグリだったのだが貝類は食べられず。ひさしぶりに炭酸(ジンジャーエール)を飲んだ。あわよくばビール、と思っていたけどもそこまではいけなかった。まあ、徐々に取り戻していくでしょう。

 

眼帯をしていったので、いろんな人を過剰に心配させてしまったかもしれない。劇場で偶然会ったOさんにはぷんすか怒られた。しかしこうやって女子に怒られて喜んでいるうちはまったく反省が足りていないので、精進しなくてはと思う。ただ、右目だけで睨めつけるように見るのは面白い。今後もこの癖が残ってしまうかもしれない。奇しくもこのウェブとtwitterのアイコンにしている写真がそうだよね、と人に指摘されて気づいた。

 

わたしの食べられないハマグリ。

 

 

 

 

 

 

以下、マームとジプシー『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。 そのなかに、つまっている、いくつもの。 ことなった、世界。および、ひかりについて。』Bバージョンにかんする幾つかのメモ。(Bバージョンまでのネタバレを含む)

 

 

▼この舞台は、観客であるわたしを興奮させたわけだが、しかし目の前で起きているパフォーマンスに没入させるというよりも、ずっとその奥にある冷ややかな空き地(森の奥のような)での覚醒を促していたように思う。俳優たちの動きはたしかに熱いのだけれど、どんなに汗をかいていても冷たい体温を感じさせる。それは死体にも近いと思った。あのシーンの荻原綾はまるで幽霊。

 

▼同時多発的に声、音、光があちこちで点滅している。吉田町スタジオのあのでかい柱は、観客に、すべてを俯瞰して見るということを決して許さない。どうしてお前はそんなにどでーんとしてそこにいるのだ、と思うけれど、とにかく、客席のどの位置で観ても必ず《死角》が生じてしまう。面白い劇場だ。見えないところから声はやってくる。つねに想像力を駆動させてないとこの舞台についてはいけない……いや、ついていかなくてもいいのかもしれない。観客にとって重要なのはまず、この場所に居合わせるということ。

 

▼シーンは《断片》として、かなり細かくカットされたものがコラージュされていく。その場その場ではストーリーの流れがよくわからないままに、そこにある感触、手触り、ニュアンスだけが、ひたひたと残されていく。その《断片》は拾えたり拾えなかったり……。仮にひとつのシーンだけを拾い上げてみたところで、それはただ物語の表皮を剥ぎ取った表層的なものでしかないようにも見える。しかしその拾えたかぎりの《断片》が積み重なることで、この作品の全貌とも呼べるようなイメージがゆっくりと立ち上がってくる。

 

▼速度が時々ゆるむ。変調する。(これは単なる失敗の可能性もあるけど、だとしたら怪我の功名かもしれない)

 

▼しかし、散りばめられた様々な点と点を結び、さしあたっての仮の全体像を結んでみたところで、それはどうも「物語」として完結しないのではないか。たとえここに最後のCバージョンが加えられたとしても、結局は様々な欠落を抱えたままな気がする。どうやら「作品」の輪郭が不明瞭なのだ。

 

▼「作品」として閉じていないこの感じは、これまで「作品」であることにこだわり続けてきたマームとジプシーにとっての新しい生態系を予感させる。この公演では、3週間にわたって3つのバージョンが連続上演され、出演俳優が1人ずつ増えていくというその《プロセス》を観客も作り手も体験することになる。そのあまり類をみない特殊な公演形態が、この作品の《不明瞭な輪郭》を支えている。入口と出口がやたらと多い。

 

▼そのせいで、観客の関わる余地も生まれている。といってもただ「観る」だけなのだが。観客にとってこの連続上演は、《観る=立ち合う=関わる=育む》という手応えを感じうるものではないか。

 

▼今、十六夜吉田町スタジオは、緊張感と親密感とに包まれている。それはちょっと森にも似ている。森ってどこかよそよそしくて、それでいて少し親密な空気を運んでくるでしょう? その《森のような劇場》の中でテントを張ってキャンプをしているのは、あの家出少女だけではないようにも思える。

 

▼先週のAバージョンは、不穏さを漂わせながらもまだ「世界観」の提示に留まっていたと思う。コドモたちの、親密なる、壊れやすい、小さな世界。

 

▼今回のBバージョンでは、不良っぽい男子=波佐谷聡という《異物》が投入されたことで、劇全体がその小世界に落ち着くことを許さなくなっている。もうひとりの男優である尾野島慎太朗はやたら愛嬌のある素振りを始めてずいぶんファニーな存在になってきたし、女優たちはことさら「女子」っぽさを身にまとうようになった。つまり彼女たちは集団的で没個性的な「女子」であることをいったん受け入れることになる。それらは一種の「擬態」や「媚態」であり、不良っぽい「異物」の襲撃に対する臨時の回避行動でもあるのだが、時間と共に、《異物》はこの舞台に取り込まれていき、彼や彼女たちもみずからの存在感を発揮していく。かといって《異物》がすっかりこの場所に同化してしまったわけではない。《異物》は最後までごろんとしたそのごつい形状を保ったまま、それを取り込もうとする劇全体に消化不良を起こさせ、その《輪郭》を破綻させてしまう。

 

▼消化しよう、取り込もうとする演劇の魔力と、それに抗おうとする俳優との駆け引き。

 

▼「2001年」と「2011年」は、それぞれ3桁のナンバーと、その記号が意味するところの大惨事の記憶をいやおうなく呼び起こす。これはコドモたちの小世界に対する「大きな物語」として、ほとんどなんの脈絡もなく召喚される。それがストーリー上の伏線となって後で回収されるわけでもない(少なくともBバージョンまでは)。

 

▼例えば平田オリザ(青年団)であれば、必ず戯曲の内部において、遠景の政治状況と目の前の小さな日常とを接続しようとするだろう。いわばそうやって劇作家としてのオトシマエをつけるのであり、それが平田戯曲の遠近法の鮮やかさでもある。しかし藤田貴大(マームとジプシー)はおそらくそうはしない。できないとも言える。性質として。狙っているところが平田オリザとは違う。きっとマームとジプシーはあまりにも《無力なコドモ》だったのだ。少なくとも、そのような《無力なコドモ》であるところから出発しようとした集団だったのではないか。その意味では今回の公演は原点回帰とリスタートを匂わせている。《無力なコドモ》であること。だがまったくの無垢=無知ではいられない。世界のダークサイド、世界の理不尽さを彼らは感受してしまう。くらってしまっている。

 

▼そうした理不尽な世界の現れに対して、戯曲内での物語構造によってオトシマエをつけるということは、この作品では為されない。おそらくはCバージョンの最後まで為されないと思う。むしろこの作品にとって重要なことは、言葉も経済力もない《無力なコドモ》たちが、つねにその理不尽な世界によって蹂躙されて傷ついているということであり、にもかかわらず、《それでもなお生きるということへのパッション》を失っていないのだということではないか。だから《無力なコドモ》たちは、不器用にもがくことでさらに自分や他人を傷つけてしまいながらも、感受してしまったものをエモーショナルに投げ返そうとする。

 

▼このエモーションの発露は、これまでのマームとジプシーにとって両刃の剣であり、時として感傷的な、いわゆる「泣き女」になりかねない危うさを孕んできた。今後もその危険はつきまとうのかもしれない。熱く激しい中にもあるはずの体温の低さを失ったら流されてしまうかもしれない。

 

▼この舞台でのエモーショナルなそれは、感傷的に自分の過去の傷を振り返り舐めるために発露されるものではない(だがたまに振り返ってもいいのだ)。これはあくまでも理不尽な世界に対する唯一の対抗手段として発露される。それはまるで闇雲な祈りのようである。祈る対象が誰だかもわからない。親でもない。先生でもない。共同体でもない。町でもない。土地でもない。神でもない。海でもない。この、誰に祈りを捧げてよいのかわからない戸惑いと、それでも発露せざるをえないとする《無力なコドモ》のパッションは、吉田聡子のあの動きに象徴されている。荒々しい巫女。イタコ。神憑きの女。……大きな世界のクライシスを受け止めるには、彼女の身体はあまりにも細い。しかし彼女を突き動かすものがある。彼女にも意味がわからないのだろう。そもそも意味なんてあったのだろうか。例えば2つの、あの3桁のナンバーにまつわる出来事に、どんな意味があるのか? イスラムの聖典解釈やグローバルな世界政治の構造、原発をめぐる既得権益の横行や情報操作など、様々な問題があることはちょっと調べればわかる。wikipediaが教えてくれる。知識は重要である。現実的な思考は変革への第一歩である。だが付け焼き刃の知識で何かをわかったような気になることが、果たして現実を変える力になるのだろうか。《無力なコドモ》にはわからない。それは彼らが無知だからわからないのではない。《わからない》という場所からまずは出発しようとしている。この《わからない》という感じ、傷ついた場所に、まずは立ち止まってみようとしている。いや、足を止めるわけではない。歩きつづけはする。ひとまずは森の奥に行ってみるしかない。彼女はじっとりと汗をかいている。白地に黒の点々をまぶした衣装を着て。細い身体が弧を描く。

 

▼《無力なコドモ》とは、つまりは「日本人」のことなのかもしれない。

 

▼上空から俯瞰するような視点。

 

▼『てんとてん〜』の台本は、役者を駆動させ、世界に立ち向かわせるための一種の《装置》である。この《装置》によって発動された役者のパフォーマンスが、小さな世界と大きな世界を繋いでいく。いや、実は大も小もないのかもしれない。あるのはただ「いくつもの。ことなった、世界」ではないか。


▼戯曲は台本の形をもって現場に侵入する。台本とはつまり《装置》であり《設計図》であり《譜面》である。戯曲として読める、ということは、それが文学作品として完結しているということを意味しない。だからといって、演劇は安易に身体/空間/時間に依存するわけではない。あくまでそこに言葉が拮抗する。

 

▼『てんとてん〜』はこれまでのマームとジプシーと同じように「記憶」が扱われている舞台だけれど、わたしは不思議とそこに「過去」の気配を感じなかった。それは彼らがあくまで現在形のものとしてガッツをもって舞台に臨んでいるからではないだろうか。「リフレイン」には、過去を繰り返すだけでなく、過去を「現在」のものとして立ちあがらせる効果があることを忘れてはならない。その声を聴いているのはたしかに「今」なのであり、そこには後ろ髪をひかれるようなベクトルは実は存在しなくてもいいのである(過去は魔力を持つけれど)。この圧倒的な現在進行形の力と、次にCバージョンや海外公演が控えているといった近い未来への予感とが、過去への追憶(ノスタルジー)を凌駕している。