BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130422 芸術と社会?

 

リハビリ続行中。いろんな本を、そろりそろりと読み漁りながら考える。きっと、演劇と社会、とゆうあの使い古された問題設定には罠がある。それは単にプラグマティックに処理してよい事柄なのかもしれない。つまり、演劇には実際に、社会に対する有用性、有効性があるのだから、それを粛々と行使すればよいのかも。それが演劇の本質とは関係ない、とも思わない。むしろ根幹に関わることではないかとも思う。しかしそれを、社会のために、とか言い始めるとどうやら本末転倒にも思える。嘘があるのではないか。
 
わたしは第一義的な意味での作り手ではないから、そうした罠っぽい問いから少し離れたところにいて、そのさしあたっての答えを必要としているところに接続したり、切り離したりしていればよいので、ずいぶんと欺瞞的で、テキトーすぎるかも。でもここはテキトーでよいのでは? そもそも問い自体が罠なのだし、そこに正面から乗っかってやる必要もない。
 
それよりも。
 
たぶん、人間が生きてこの世にあって、何ごとか(芸術)をせずにはいられないとゆうことと、この世界がどのように動いているのかを見極めるとゆうこと。その両者、とさしあたって認知できるもののあいだに、どのような関係を見出していくのか、とゆう。
 
つまり、
芸術と社会、ではなくて、
存在し創造する人間と変わりゆく世界、
とゆう問題設定のほうがまだ幾らか信じられるような。
 
 
世の中の大部分は非常に物理的、合理的に動いている。それは筋が通っているとか正しいとゆう意味ではなくて、悪どいことや汚いことも含めてのこと。人間の欲望はすでにこの合理的サイクルの中に組み込まれている。社会は基本的にこれを円滑に進めることを至上命題としている。議会も法廷も会社も学校も。そうでなければ合意形成がはかれないから。
 
しかし、実際にはそううまくはいかない。バグやエラーは発生するし、そもそも人間の中にはそうしたシステムにそぐわない何かが眠っているらしい。たまにそれが煙をあげる。火を吹くこともある。心の闇? 闇のない心なんてあるのかしら。少なくともわたしはそんな平板な光の心には興味がない。いや、本当にあるのならお目にかかってみたい。話を戻すと、とにかくうまくいかないことがある。わたしみたいに怪我で仕事できなくて家でただ寝ている人もいる。怪我でなくてもそうしている人もいる。働きすぎですっかり疲れてしまった人もいるし、信頼していたはずの人に裏切られたと感じた失意の人もいる。それならばまだわかりやすい。事態があまりにこんがらがってしまって、いったいどこから糸をほぐせばよいものか、もはやわからなくなって混乱している人もいる。数年前までのわたしにもそんなところがあった。単にテキトーさで乗り切ってきただけであって、根本的にはあれから何も解決していないのかもしれない。そもそも根本的な解決、とゆう発想自体が、ユダヤ人問題に対する最終解決を図った民族浄化の発想にも似て、危険だ。おそらくは生きていくかぎり、100%クリーンな状態なんて訪れない。ただそれがそんなに汚らわしいものであると以前ほどには思わなくなっただけ。いのちあっての物種。生きていれば何かに出会うし、そこから何かは生まれる。別にそれが社会に貢献しているかはどうかはそんなに重要とは思えない。それよりも問題は、まさにその社会からこぼれ落ちているもののほう。その、残余のものが、ただすでにある社会に回収されても、圧殺されるだけだと思う。そう簡単に譲り渡してはいけない。そうではなく、残余のものが、その内に抱えていく価値を、どのようにして社会の中に埋め込んでいけるか。いわばゲリラ戦なのだ。
 
といっても、かつてそう思い込んでいたようには、反社会的である必要はない。社会は決して敵ではない。そこには愛すべき人たちがいるのだし。とりあえずは、それが求められるのであれば、積極的に社会に参加しているようなフリでもしていればよいのではないか。そしてたまにそれらしきことを口にして、いかにも社会の一員ですよみたいなドヤ顔をしたっていい。でも、それもどうでもいい。逃げよう。残余のもののほうへいこう。だけどただ逃げるわけではない。逃げているフリをして搦手から侵入する。なにしろこれはゲリラ戦であり、ハッキングなのだから。
 
 
逃げる、といっても、自分の居所はどこでもいいと思う。ただ、あまり人に知られないほうがいいという、これは予感。今わたしがいる部屋にはもちろん住所がある。そしてそれは、すでにそれなりの数の人々にバレている。名刺にも書いてしまっているし。その証拠に、郵便物が毎日のように届く。今は足が悪いので、下まで降りていくのが億劫で、だから郵便受けもこの数日は見てないし、何かの督促状があったところで知らんぷりを決め込むけども、とはいえ、何日かしたらわたしは好奇心と社会的義務とに屈してその郵便受けを開けるだろうし、ここに住んでいることをみずから証明してしまうに違いない。
 
でもへへーん、わたしはそこにはいませんよ、とも思うのだ。今、これをiPhoneで打っているこの部屋には、たしかに住所があるし、google map とかで特定もできるでしょう。でもどんなに空から見たってわたしは見えない。残念でした。それは屋根があるからではなくて、そこにはわたしはいないのだから。
 
住所から消えてしまった存在というのがある。どうやら。わたしも今それに近い状態なのだと思う。社会から身を潜めている。いっときは。でも再び姿をあらわす。必ず。それが、背広を来てなのか、死体としてなのか、犯罪者やテロリストとしてなのか、芸術家としてなのか、ただの酒飲みなのか、は、ケースバイケースとしかいいようがないけれど、できれば死体や犯罪者やテロリストは避けたい。もしも世界がまぶしすぎて、闇が、落伍者の心の中にしかないとされるようであれば、そうやって切り捨て続けるようであれば、またいつか再び同じような犯罪やテロリズムは繰り返されるだろう。銃が乱射されて人が死ぬ。それはよくないことだと思う、ごく素朴に、だが真剣に……。芸術がその凶行に及んだ人間の心を救うかといえばその可能性はかぎりなく低い。そこに賭けているとしても。たったひとりを救うことに賭けているとしても。芸術と呼ばれるものが、秋葉原の彼や、ボストンの彼を救うだろうか? わからない。厳しいだろう。芸術には直接的に何かを救う力はあまり期待できないと思う。もっと偶然の出会いに委ねられたものだから。だからこそ、芸術がじわじわと少しずつ世の中を変えていく可能性は信じたい。膨大な時間がかかるとしても。でもそれも、責任逃れに過ぎないのかもしれない。いつか変わる、と言い続けていても、果たして歴史は、少しずつよくなっていると言えるだろうか? 残念ながらそんなに単純な話ではないらしい。いや、そもそも芸術というくくりが大きすぎるので、ひとまずは、演劇が、と言ってみたい。演劇が人を巻き込んでいく力、人の心に入り込んでいく力には、人生の相当長い時間を賭けるだけの価値があると感じている。だから、それはやる。
 
 
ほんとうは、演劇も含めて、芸術はもっと身勝手なものではないのだろうか。あの、合理性からはじきとばされた残余の部分、すなわち、社会的にともすれば亡きものにされ、圧殺され、隠蔽されがちな部分。芥川的(黒澤的)な「藪の中」。合理的な言語ではそれは存在すら認められないのだとしたら、きっともう、次元の狭間みたいなものだ。その次元の狭間を見てみたいとゆう好奇心が、芸術にたずさわる人にはあるのではないか。
 
身勝手だからといって、世界と関わらないわけではない。むしろわがままを突き通さないと見えない世界があるのだと思う。だから時々、姿を消す必要がある。
 
 
ただやっぱり生きていれば腹はへるしお金は要る。稼がなくっちゃいけない。やれやれ。とか思いながら、案外それを楽しんでいる。