BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130406 紙風船文様

 

板橋のアトリエセンティオに、カトリ企画UR『紙風船文様』を観に行く。鳥公園の西尾佳織が岸田國士の『紙風船』を構成・演出。出演は武谷公雄と黒岩三佳。カトリさんが最近生き生きしてるなあ、と思っていたら、その理由がわかった。とても良かった。ちょっと素晴らしすぎて驚いてしまった。日本の古典文学を演出できる若手といったら、地点の三浦基くらいではないか、とか思っていたけれど(わたしの知るかぎりでは)、考えてみれば三浦さんはもう若手ではないので、若手では西尾佳織くらいではないか、とさえ思った。原作をすごく丁寧に読み解いていたし、でも、ただ批判するのでもなく、従順になるのでもなく、ある距離をもってしっかり、それでいてある意味で投げっぱなすというか、自分の手を離れたところのものに託すようにしてつくってあった。それを可能にしたのはこの2人の俳優の力もあるだろうし、3週間前に小屋入りしてずっとそこで稽古をしてきたのも大きいのだろうと、佐々木敦×西尾佳織のトークを聴いていても思った。使われなかったアイデアの数々。死産、という比喩は適切ではないかもしれないけども、その水子の霊のようなガジェットが、試行錯誤の結果として、舞台上に散りばめられている。結果ではなくプロセスがここにはある。その堆積した時間感覚が、この舞台から強く感じられる。時間が面白いのである。まず、90年前の戯曲。40分という上演時間。演出家の過ごしてきた人生の時間。俳優たちがそれぞれに過ごしてきた時間。プロデューサーの過ごしてきた時間。3週間という稽古の時間。そして『紙風船』という戯曲内に流れていたある日曜日の時間。さらに秀逸だったのは、西尾佳織によって付け加えられたあるシーン……。もうあとは千秋楽しかないので、ネタバレだけれども書いてしまうと、スプリングコートを妻が買いたかった、という話が凄く良かったのだ。冬に、丸井でコートを見て、薄手すぎるんじゃない?、と思っていたら、春にも同じコートを見た。あ、これはスプリングコートだったのだわ、と思って、買いたいけれど、丸井がもう少しでセールになるので、それまで待ちたい。けれど、ただでさえ着られる期間の短いスプリングコートなのに、それまで待つなんて……という話をしている時の2人の様子が、冷たい引力のようなそれが、ほんとうに凄く良くて、泣いちゃったのだけれど、たぶんそれはこの、冬から春にかけて越冬する、という時間感覚が、この夫婦のあいだに流れている時間とか、不自由さのようなものをすごく物語っているようにも感じたし、もっといえば、それがさっき書いたような演劇の時間の複層性のようなものを立ち上げてくるようにも感じられたからだった。使われないカツラが、幽霊の残骸のように舞台に残されているのがいい。あと、武谷さんが「あっ」とか言ってつまずくあの大木。いったいどこから流れ着いてきたのか。

 

終演後、気分を良くして、JRで隣駅の十条に行って斎藤酒場でしばらくちびちびしみじみと飲んで、今夜は嵐だから早くお帰りくださいねとかおばちゃんに言われながらも、なんとなく約束をしてはいたので、板橋に戻って、夜の公演を観ている人たちを、平家という店で待っていた。平家にはなぜかその場末的な場に似つかわしくない可愛らしい店員さんがいた。でも、美人、とかいうことと、可愛らしさというのは違うのだろう。そういえばトークで、西尾佳織が「可愛げ」という言葉を使っていたけれど、これは松井周のいう「愛嬌」にも凄く近いのだろうと思う。多田淳之介の言葉でいえば「チャーミング」ということになる。やっぱりこういったものは人間を捉えるうえでとても大事なのだと思う。それがなければ、他人と一緒にやっていけないような何か。

 

最寄り駅までの終電をまたもや逃してしまったので、桜木町から。横浜は、思ったより雨はもう降ってはいなかった。担々麺を食べて、タクシーに乗って帰った。太りますよ、とMM先生にメールで言われた。たしかに、あやうい。眠りにつきかけた頃とある人から電話がかかってきた。わたしは半分ほとんど夢の中にいて、だから天の声を聴くような心持ちで蒲団の中で喋っていたと思う。1時間弱くらい? 時間はもうよくわからなかった。なんか、最近、自分が軽薄になっている気がしていて、別にそれは悪いことじゃないような気がするんだよね、という話をしたら、それ、前にもさんざん言ってましたよ、4月になったら変わるって、とか言われ、はあー、そういえばそんな話をしたかなあ、とも思った。そうね。きっと、軽薄さと誠実さとが、同居しうる道があるはずだと信じたい。