BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130405 エクス・ポ編集会議

 

横浜某所で、とあるご相談を受ける。真摯に話を聴いてくださる方たちでよかった。いずれ何かしらの形で実を結ぶかも。

 

 

夜はSNACで「エクス・ポ編集会議」@ニコ生。おおむね好評(?)いただいたようで何よりです。来てくださった方、見てくださった方、また取材にご協力いただいたみなさま、ありがとうございました。他の出演者やスタッフのみなさんにも感謝。

 

ところで、自分のプレゼン中は画面の関係でコメントが見られなかったんだけども(技術スタッフのウエマツマンから、盛り上がってましたよ、とは聞きました)、ひとつちらっと「菅付さんのプレゼンを見習え」的なコメントを見かけて、別に目くじらを立てることでもないし大抵のことはスルーするけど、えっと、ちょっとそれは全然わかってらっしゃらなすぎるのでは?、とも思うので、いちおうそれについて、菅付雅信さんのことは編集業の先達としてリスペクトしているしプレゼンも見たことあるよという前提で応答すると、やっぱり、広告とってきて雑誌をばんばん創刊して潰して、というような菅付さんのやり方を踏襲するのはそもそも不可能だし自分は違うなと思うからこそ、こういうスタイルと思想でやっているのです。

 

編集者は時代の空気を読む人種だと思う。つねに何かしらの情報を収集しているわけだから、それらを手がかりにして、風を読む。中には商売に長けている人もいる。資本主義社会では、ある程度経済的にペイしていくことは重要だから、そうした商売の才能は世の中に必要とされる。彼らがいなければ生活が成り立たなくて埋もれていく作家はたくさんいると思う。だから大事。

 

ただ、冷静に考えてみて、わたしにはたぶんそうした商才がない。ではどうするの?

 

……という問いの設定だと、順番が逆かもしれない。ただわたしはわたしの思うところをやるために流れついてたまたま編集者をやっているだけなのだから。いってみればなりゆきで、学生時代には編集者になりたいとかも思っていなかったし、当時はそういう就職活動とかもいっさいしたことがない。ただ流れ流れて流れ着いた以上、それをやるしかない、というだけのことなので、まあ浮いているというか、違和感があるというか、石を投げられたりもするだろうけど、それは致し方ないことだとも思う。ただこちらとしては流転してきて今があることに、ちょっとした運命のようなものを感じていなくもない。それなりに経過し、蓄積した時間があるから。

 

さて話を戻して、風を読むってことはどういうことかというと、流れをつくるということでもあり、言説や世論はそうやって形成されていく。編集者はその歯車のひとつだし、あるいは、線路の分岐路のポイントのような役割を果たしている。どっちに切り替えるかで、世の中の言説の流れが次第に変わっていく。空気が変わっていく。……こともある。もちろんひとりではそこまで大きくは変えられない。でも、個々人の判断が案外大きく世の中を変えていく。人は人と影響し合うから。

 

わたしはそういった風がびゅんびゅん吹いている有象無象の流れの中に飛び込んでみたい。というかすでにそうして来たし、これからもたぶんそうしていく。そうせざるをえないだろう。観察してはいるけれど、純粋な観察者としてはいられない。プレーヤーでもある。様々なものに巻き込まれるし、巻き込みもする。生きるってそういうことだと思う。そして生きていくために、必要があれば風を読むし、どっちに向かえばいいか匂いを嗅いで判断するし、仮にメインストリームとされている流れがきな臭いなと思ったら、そこからこぼれ落ちたものが生き残ることのできるような場所をなんとか確保しようとする。それが、生きるということだから。残念だけど、わたし自身も含めて、人は見たいものしか見ようとしないし、見られないし、その、狭い視界の外に追いやられたものたちを見つづけることは大事だって思う。いつも「外」には何かがある。

 

 

「外」を見ようとするのは、ある種、世界のバランスを保つような行為なのかもしれない。ロマンティシズムではない。無縁のものだ。わたしはよく、暗い穴の中で死んでいく自殺者のことを考えてしまう。いつも死ぬことばかり考えていた若い頃のわたしが、今まで生き残っているのは不思議というか偶然としか思えないけど、とにかく生き残ってしまった以上は、よりよく生きていきたい。誰が死んで誰が生き残るかなんて自己責任だといえばそうかもしれない。すべての人の面倒を見きれるわけではないし、そもそも面倒なんてそうそう見られるものではない。もう誰の面倒も見たくない。人間は自由に生きればよい。好きに生きればよい。ただ、ほうっておくと社会は硬化する。そして自由はじわじわと奪われる。これはどうやら、社会の基本原理なのかもしれない。ほうっておくと社会は硬化する。自由はじわじわ奪われる。そうなると、自由とは、つねに、なんらかの闘争によってその都度勝ち取っていくしかないもので、まあ闘争というと穏やかではないけども、でもきっとたぶんほんとうにそうで、自由がただただ与えられるということはおそらくありえない。誰かがそれをやらなくてはいけない。それは、自分でなくてもいいのかもしれない。でも、今のところ、それを他に誰かがやってくれるとは思えないので、生きるためにはやるしかない。そのうちそんな必要がなくなるといい。

 

ともあれ、風を読んでいると、どのへんに狙い撃ちすべきものがあるかがわかる時があって、うまくいくかどうかは別として、そこで、トライアルが始まる。……そう考えていくとわたしが目指しているのは編集者というよりも暗殺者というか、人は殺さないけど、隠密とか忍者とか怪盗とかいった怪しいものの類に近いのかも。

 

そんな喩えをするとまるで荒唐無稽に聞こえるけども、それができるのがアートでしょ、とも思う。それくらいじゃなかったら芸術に関わる意味なんてない。ビジネスライクの世の中に埋没して資本主義の歯車をせっせと回してその対価をもらってウハウハ喜んで女呼んで揉んで抱いていい気持ちになってそのまま擬似的な幸福に包まれて死んでいけばよい。

 

もちろん、幸福とはすべて擬似的なものだといえばそうだけど、まあ、でも、わかるよね。裂け目が露呈する瞬間はあるから。20代の頃は、よく、わたし自身、穴に落ちてたけども、最近はそうでもなくなったのは、タフになったし穴に落ちないための嗅覚も身についたのだろう。歳の功ってでかい。

 

だけど、そうした穴が必ずしも悪いわけではない。それは一種の、社会の中にぽっかりとあいた裂け目なのだから、そこに落ちて初めて見えることがある。でもいちいち落ちなくてもすむように日々を生きていく。生活しなくてはいけないから。だからこそ思考する。試行する。あの暗い穴の中に第三の目を置いておく。それを遠隔操作することは可能だろうか? きっと難しいだろう。時々ひきずられる。でもそう簡単には落ちないよ、という。そのために日々鍛錬する。智恵とか思想とかはそのために培われる。

 

そしてそれが全然足りてないなと思った。それはネガティブなことというより、未知の可能性でもあるので、楽しみ。になった。

 

ともあれ、「エクス・ポ編集会議」ではかなり繊細な話題も出たし、良い刺激を受けた。九龍ジョーとはもう10年以上に渡る謎の付き合いがあるけれど、人前で公的に一緒に話すのって意外にも初めてだったかもしれない。とりあえず記憶にない。実は今回、事前には、きちんと台割というか、すぐにでも一冊の雑誌がつくれるような企画一覧も用意していたのだけれども、この編集会議は必ずしもそうした実現性を求めるものではないし、プレゼンでも話したように、むしろあそこでみんなでワイワイ話すということ自体が「エクス・ポ」だとわたしは考えているので、あえて理念的、思想的なところに一回引き戻してみた。目先の固有名詞だけを弄するのではなくて、それぞれが何をどう考えているかが必要だし面白いところだとわたしは思ったので。もちろんみんな好きにやればいいと思う。

 

ある名前をあの場で出すかどうか躊躇して、結果的に出さなくてよかったと思う。今はその時ではないんだなと感じた。自分がそうやって固有名詞に畏怖を抱くのは、ゲド戦記の影響が意外にもシンプルにあるのかもしれない。本当の名前を教えてはいけないというアレ。言い換えれば、そこでは名前は信頼の担保になっている。

 

編集者は固有名詞のレパートリーを持っている必要があって、それがなければ、一切の企画を具現化することができない。キュレーターやプロデューサーも同じく。ただ、そうした固有名詞をただ弄ぶようになってしまってはお終いで、そうなるとあえて言うけど資本主義の犬に成り下がるようなもので、犬は案外自分のことを主人だと思っていたりするし、それなりの報酬も得られるから金満ではあるかもしれないし、金満ならまだマシだけど、まあ、多くの場合は使役されて終わる。わたしはそうはなりたくないです。

 

それにもうこれ以上、東京が沈没していく姿は見たくない。横浜にいるから、東京がどうなってもいい、とは、やっぱり思わない。東京は近いし、そこでも仕事してるし、関係者や友人もたくさんいるし、東京がどうなるかは日本や世界にも影響を及ぼすのだし。

 

だから若い人は、もちろん先達への敬意を抱きつつも、同じことをしていてはダメだと思う。世界は痩せ細っていく。ほうっておくと社会は硬化するし、自由はじわじわ奪われるのだ。新しい感性や態度が必要だと感じる。そして、新しい固有名詞を発見する。

 

なんかこんなこと別に書くつもりではなかったのに書いてしまった。まあ粛々とやるだけなんですけどね。春になったので、徐々に躍動していきたい。去年度までとはまた全然違う感じになりそう。立ち位置を定めていくと同時に、ゆくえをくらますような。足跡を残していくと同時に、痕跡を消し去るような。

 

 

ちなみにパワポ、面白かった。パワポを準備していた時と、あの場で喋っていた時の自分のテンションやモードはずいぶん異なっていたんだけども、もうパワポを用意しちゃってるので、しょうがない、ひとまずその流れに倣うか、という、その時間差のようなものが面白かった。わかりやすいパワポ、とかでなく、わけのわからないパワポ、を今後も心がけたい。一種の戯曲のようにそれを使ってみたい。(悪魔のしるしの危口統之君の最近のパフォーマンスにもきっと影響を受けているな……)

 

終演後はひさしぶりの「だるま」。出演者全員と、SNACオーナーの桜井さん、そして来てくれた人たち(懐かしいママの顔も!)で楽しく飲んで、最寄り駅までの終電を逃し、桜木町からタクシーで帰った。旅の疲れもあったのか、桜木町では横断歩道を渡りながらウトウト寝ているような状態でかなり危なかったわ……。MM先生に打っていたメールはまったく日本語になっていなかった。