BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

20130319 日記→散文

 

毎日の筋トレが必要だなと感じて、日記を欠かさずつけていた2011年のブログを読み返してみたら、恥ずかしくて読めたものじゃなかった。なんか茶番だわー、と思った。へそが茶を沸かしそう。

 
「公開を前提とした日記」といういかにも現代的な器をつかって「事実」を記すにはどうやら限界がある。顕著な例が「恋愛」。その極めてプライベートで淫靡な領域は、眩しすぎるパブリックな陽の光には到底耐えられないし、「秘密」としてひそやかに処理されるほかない。墓場まで持っていったほうがよさそうな秘密(みんなあるよね?)。そのほとんどに何かしらの性愛的なものが絡んでいるのは明々白々たる(それこそ)事実なのだし。
 
そのプライベートで淫靡な領域を捨象した「事実」を記述したところで、白々しい欺瞞、隠蔽行為、言い訳やアリバイ作りでしかない。それをよしとする空疎な筆記をだらだら続けてしまうようでは、本当に書きたいものがスポイルされてしまいそう。まあだからこそ小説は、恋愛を記すことのできる秘密の花園として(秘密を暴露してしまう私小説、という問題を孕みながらも)機能してきたのでしょう。 
 

今惹かれているのは、まざまざとその存在感を誰かの記憶の中に残すくせに、それ自体は確たる存在証明もできない幽霊のようなもの。しかし一方ではそうやって半透明に漂っていながらも、その一方では具体的な物証(手がかり)も手放さない通俗的なエクリチュールとしての散文。
  
山田うん『ディクテ』はまさに散文のような舞台だった。明瞭な形をとりきらずに去っていく、それでいて確かな存在感を残すのだから。
 
 
「日記」でもなく、「小説」でもなく、「随筆」でもなく、「批評」でもなく、「詩」でもなく、「歌」でもなく、「ダンス」でもなく、「音楽」でもなく、「絵画」でもなく、「設計図」でもなく、「地図」でもなく、「手紙」でもなく、「遺言」でもなく、ましてや「セックス」ではない(当然)、それでいてそれらの全てでもあるようなもの(!)、それを「散文」とひとまず呼んでみる。