BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

3月7日〜10日の観劇メモ

 

この週末、いろいろ観たけれど、ツイッターで感想を書くことが(時間的にも、意志としても)できず、だからここに書きます。

 

 

▼地点『駈込ミ訴ヘ』@KAAT

正直最初の数十分は、大丈夫だろうか、と不安になったりもしたけれど、この、いつもと異なる発話法は、後半に至ってじわじわとボディブローのように効いてきたのだった。スキゾフレニーなユダ。この分裂ぶりは、太宰のテクストに込められている様々なテーマを炙り出していく。師弟の葛藤、恋愛、嫉妬、そして宗教……。特に「ゲヘナ」に関するシーンは凄まじい。まだ公演中とあってネタバレは控えるけれども、あれは「キリスト教」をおそろしく相対化した瞬間であり、凄まじいニヒリズムを感じさせる瞬間でもあった。三浦基は今作で太宰の懐深くに入っていく。刺し違うか、と思われるくらいの危険水域に浸入していて、それでいながら抜けしゃあしゃあと生還するような愉快さがあった。確かにこの人は(本人が語るように)ネアカだわ、と思った。というのも、太宰治という人が持つ、あるいは、近代文学というものが孕んできた、呪い、のようなものをひどく突き放している。言い換えるならば、近代文学というものが持っているある種の自己破壊衝動のようなものに対して、冷徹な距離を保っている。これは、天国だか地獄だかにいる太宰も、きっと浮かばれるだろう、と思った。

(昨秋に三浦基が演出した)イェリネクは外部からやってきた異物だった。しかし太宰は、やはり、日本人の内部に巣くっているのだと思う、そのメンタリティや文学的遺伝子が。そこに分け入りながらも突き放すことは、もしかするとイェリネクを演出すること以上に難しいと思うのだが、この作品と、そしてこれから開幕する『トカトントンと』はかなりのところまでそれをやってのけることになりそう。

http://www.kaat.jp/pf/chiten-2013.html

ちなみに個人的には原作を読んでから観たほうが楽しみが増すとは思うけれど、原作をまったく知らないで観て楽しんだ人もいたみたいなので、お好みで。青空文庫に落ちています。iPadとかだとアプリで読めます。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/277_33098.html

 

 

 

北九州芸術劇場プロデュース『LAND→SCAPE/海を眺望→街を展望』@あうるすぽっと 作/演出:藤田貴大

この作品について黙殺したままではくるしくて、先に進めないと感じるので、書きます。この作品が並々ならぬ労力によってつくられたことは舞台からびんびんに伝わってきたので、そこに敬意は表しつつ、またマームとジプシーの近年の活動を見てきた者として、さらには今作に向けてのインタビューを担当した者として、シンパシーもないわけはない(ないわけないやん)のですが、ただわたしはわたしの信条の拠るところとしてこの作品を良しとすることがどうしてもできないので、思ったところを率直に書きます。困った時は率直であることこそが最善の道であると信じます。この作品が大好きだ、という人もたくさんいるようだから、その人たちはその人たちで声をあげて、書き残してくれたらいいと願います。

 

『LAND→SCAPE』は「リフレイン」の現時点でのアポリアを良くも悪くも露呈させてしまったと思う。繰り返されるフレーズやシーンに何かしらの価値が眠っているとは感じられなかった。おそらくその大きな原因は、これが藤田貴大自身の内発的なモチベーションや必然性によって生み出された物語ではなく、北九州芸術劇場からの要請によってつくられた、という点にあると思う。「北九州の物語」を書こうとしたのだろうけど、ストレンジャーとしてある土地の物語を書くというのは、挑戦しがいのあることとはいえ、やはり、かなり難しいことだったのではないかと思った。

今作はかつてないほどに自己模倣が激しい。同じモチーフを用いること自体はけっして悪いことではない(と前にも書いた)けど、『LAND→SCAPE』は残念ながら「マームっぽいシーン」が記号的に消費されているだけだとわたしには見えた。それらが物語(フィクション)として昇華されているように思えなかった。小倉のあちこちの固有名(その8割方をわたしは知っている)にしても表面的に使われているだけで、そこから繊細に物語を紡いでいくような態度があまり感じられなかった。かといってそれがワイルドだったりタフだったりするのかというとそうとも思えない。言い方が悪いけれども(マームとジプシーでは考えられないことだが)、がさつ、に感じてしまった。がさつなのとタフなのは違う。カフェ・ド・ファンファン(わたしもそれなりに思い入れのある喫茶店)はなぜこの舞台に持ち出されたのだろうか。そう簡単に人を殺してほしくないし、ボケた、ということもわざわざ言われなくても見ればわかる。何かを語ること、語ってしまうことへの畏れはどれくらいあったのだろうか。「海が人に恩恵をもたらすだけでなく何かを奪うものでもある」というのは藤田くんの深い部分にある大事な思想だと思うけれども、それをそう簡単に発語していいのかという疑問も抱いた。個人的にはぐっとこらえてほしかった。語らない美学みたいなものに拠ってほしいわけでもないのだが、しかし、とはいえ、この舞台にとって沈黙とはどのような意味を持ったのだろうか。「書かれていない部分」というものは果たしてどのように存在しえたのだろうか。

20人という人数は多すぎたと思う。別に東京と同じ洗練された身体が観たいわけではない。東京の俳優が優れていて地方の俳優がダメみたいな単純な話に還元したくもない。ただ実際に環境や日々の生活や鍛錬の違いはあるのだし、その人たちの良さを活かすには時間と丁寧なコミュニケーションとが必要になる。北九州芸術劇場には、今年で終わり、とかではなくて、継続的に今後も関係を積み重ねていって欲しいなと切に願います。フラダンスのシーンとか好きだった。好きなところはこの作品にもいろいろあった。トイレの便座の話というタイミングでなぜかプロポーズしてしまうエピソードとか。あの船なんてよくぞ持ってきてくれたなとやっぱり思うし、ゼンリンの地図(?)が舞台面に映し出されるのも興味深かった。あと藤田くんはぜひ音楽ダンスイベントを企画・演出してほしい。踊りながら観る演劇があってもいいと『LAND→SCAPE』の群舞を観て思った(実は『Kと真夜中のほとりで』の時から思ってた)。みんなでデス・ステップ踊りたい。一緒に踊れるシーンとかあったらいいな。

ただ、やっぱり藤田くんを支えてきたのはマームとジプシーだったと思う。その仲間や、そこで共有されている意識、風景、のようなものが、あるのとないのとでは全然違う。だけど、そこから離れてクリエイションしなければならないような機会もこれからたくさんあるだろう。その時、ひとりの作家としてどうするのか。

 

まわりくどい昔話をすると、20代の半ばにわたしが友人たちと一緒に下北沢でつくっていたミニコミが、とある喫茶店の店主を激昂させてしまい、呼び出しを喰らったことがある。友人と一緒にその店主の話を聴きに行った。結果的に雨降って地固まるというか、その店主とはそれから付き合いが深くなり、様々な話をする仲になり、未だにその店にちょいちょい行くし、そこで発行されているミニコミから原稿依頼を受けるようにもなった。その人から教えてもらったのは「何かを書くことは、誰かを傷つけることでもある」というごく単純だがやはり経験してみなければなかなかわからない事実だったと思う。この文章も大いに誰かを傷つけている可能性はある。

もちろん書くこと、作家であるということは、そうした暴力性を引き受けていくということでもあるけれど、それにしても何かしらの倫理は求められるとわたしは思っています。単に、事実に即したことを書けばよいという話でもない。西にあるものを東にあると書いたら、それは事実誤認だと怒られるだろうし、それが新聞記事だったら大問題だ。でも小説や映画や演劇では必ずしもそうではない。それが「ほんとうに」東にあるのだという説得力なり必然性なりをその物語が持っているかどうか。作家はその幻視した世界を書けばいい。見えない海が見えたなら書けばいい。だがそこに至るまでには物語の強度が必要ではないだろうか。つまりフィクションとしてきちんとした強度を持てるかどうか。そこでは、その作品/物語/言葉に対する作家としての態度(責任)が問われるのだと思う。そうしてはじめてストレンジャーは何ごとかを語りうる。

町に入っていくことは難しい。滞在制作(アーティスト・イン・レジデンス)は今の流行ともいえるし、とても重要な試みだと思うけれども、結局はその町のメンバーになるわけではない(その町が気に入って移住するというケースも稀に起こりうるけれど)。滞在する作家はあくまでもストレンジャー(よそ者)である。ではよそ者がそこで何を書くのか。何を書けるのか。ギラギラした目でウロウロしながら、よそ者はその町で何かを拾う。好奇心があるのだから、拾わないわけにはいかないだろう。しかし表面的に固有名詞を掠め取ることが彼の仕事ではない。だからこそ物語をたぐりよせていく。人の話を聴く。耳を澄ます。見えないものを見る。その時、自分のロマンチシズムをその町に当てはめようとしても拒絶されてしまうだろう。そう簡単に物語を別の土地に移植なんてできない。南向きの海と北向きの海は違うし、青い海と灰色の海も違うのだ。勘違いしてはいけないのは「移植可能であること=普遍性を持つ」ではないということだ(きっと)。普遍に至るためにはもっともっと丁寧に泥臭く、個別の人やものごとを見つめていく必要があると思う。町のリズムを体感してみて、ロマンティックな感傷がもしもその邪魔をするのなら捨て去ることも時には必要かもしれない。まずはそこに何があるのか。それを見つめる、ただ見つめるという態度なしに、他人や町は心をひらいてくれない。時間がかかる。だけど待つしかない。無理にこじあけることはできない。しかしただ待っているわけにもいかない。歩くしかない。時には誘惑もする。しかし(ここが難しいところだが)簡単に愛してもいけない。愛は盲目を呼び込んでしまう。愛したからといってその町のすべてが微笑んでくれるわけではない。町にはいろんな人がいる。全員に八方美人的に媚びを売ることは不可能だし、そんなことはするべきではないとも思うけれど、ではそうした様々な価値観や意見を持った人々がいる町の中で、ストレンジャーとして屹立するにはどのような在り方があるのか。観察者としての孤独。しかし観察者もまたその町に含まれている。例外は存在しない。物語の場合であってもそうだ。語り手はどこかにいる。身を隠すことはできない。そして観察者/語り手には冷徹な感受性が求められる。そして視野。町の人には見えていないものも観察者/語り手には見えるはずだし、そうでなくてはならない。どこまでいってもストレンジャーなのだから。それがストレンジャーの価値なのだから。異物であること。だけどその土地や人への愛なしに書けるはずもない。簡単に愛してはいけないのだが、愛はあるのだ。それなくして生きていけるだろうか。書けるだろうか。そして彼は、ちゃんとそれらをもって、書ける人だと思う。単に若くて華やかな才能ってことではない。

 

 

 

▼キラリふじみレパートリー新作『ハムレット』@キラリ☆ふじみ 演出:多田淳之介

劇場空間には椅子が無造作に置かれており、好きなところに座ってください的な文字列がプロジェクションされている。開演時間になると、大写しの、王と、王妃の顔。以下、へらへらした棒読み的ホレイショー(笑)やら門番やらの顔が映し出されていくが、ハムレットはいないし、セリフも抜かれている。ああ、つまりハムレットは観客なのか?、とか思いながら観ていくと、例の、劇団がやってくるシーンになる。そこで劇中劇がはじまるのだが、その内容は、贋作ハムレット。なぜかレスラーを目指して留学するハムレット(笑)。ここで物語は二重構造になり、本物の王と、旅芸人の王、本物の王妃と、旅芸人の王妃、というふうな二重写しの中で、ついにハムレット米村亮太朗)が登場する。

さてこの『ハムレット』の見所はまず、劇場内をあちこち移動させられること(笑)、であり、人によるかもしれないけどわたしは楽しかった。特に、旅芸人たちが王の門前で毒殺シーンを演じてみせるところ。あれはメインホールならではの演出だったと思う(山内健司と夏目慎也による謎に前衛チックな演技も可笑しい)。

しかしなんといっても白眉はラストの××シーンをすっ飛ばしたところでしょう。これによってこのハムレットの物語は、あの時代における悲劇的な王子の話ではなく、現代に生きるこの作品を観る人自身の話になったと思う。最初に観客自身がハムレットに見立てられていたのもここで効いてくる。「to be or not to be」というおそらく人類史上でも一、二を争うであろう有名な文句の意味について、恥ずかしながら、イマイチこれまでピンとこなかったのだが、今回の『ハムレット』で初めて肌身で実感することができた。ハムレットは、死者たちと、生者たちとに挟まれて、多田の当パンの言葉でいえば「優柔不断」に佇んでいた。ただそれは「待機」ということでもあるし、よりポジティブにいうならば「これから選べる」という未決の状態でもあるのだ。わたしは個人的に考えていたことをこのシーンに当てはめたけれども、それについてはここには書かない。とにかくこれは大きな発見だった。そういえば最終的に生き残ったのは道化や旅芸人たちだけでしたな。

ちなみに斎藤淳子はナカフラに続き二度目のオフィーリアかと思うのですが、自分の中ではオフィーリアといえばこの人、みたいになりつつあります。ジャイアントスイングされながらあの「尼寺へ行け!」の名台詞を言われるとは……。

 

 

 

▼250km圏内『No Pushing / 12.16』@SNAC 作・演出:小嶋一郎

小嶋一郎が新しく立ち上げたユニット。最初に、「この作品は立って観たほうが楽しめますのでよかったら立って観てください!」という小嶋からのなぜか力のこもったアナウンスがありちょっと面白かった。さて作品は、1作目は男女、2作目は女女が押し合うというもの。しかし押し合う身体、というものに何を見出すのか。「No Pushing」についてはとても官能的というか、あけすけに言うならばセックスに近いなと感じた。まあそんなわけで固唾を呑んで見守ったのだけど、こういった「身体に負荷をかけることで出てくる発話」みたいな話自体は目新しいものではない。ただそれはなんのために為されてきたかというと、そこに見えないものを見出す、ということであったはずで、演劇の場合、その「最初の状態では見えなかったが身体に負荷をかけることによって浮かびあがってきたもの」は物語に奉仕していったりするのだが、この作品では、そうした演劇=物語が志向されているわけでもないので、ではこの身体と発話はどこへ向かっていくのだろうと疑問に思った。実験としては面白い、けれど、ここから何かが掘れてくるのかというと今のところは疑問。例えばもっと過剰に喋ってみるとかしてもいいのかも? この手法を通して稽古でエチュードを重ねて、物語を構成していくということはできそう。2作合わせても40分程度で終わってしまうという物足りなさもあった。

「立って観るほうが面白い」というのは、「どこにも寄り掛からない」ということと、キャットファイト的な感覚を創出できるからなのかしら。確かに、積極的に立ち見で観る、というのはちょっと面白い。

 

 

▼身体地図 / 岩渕貞太『UNTITLED with animation』by Noriko Okaku

アニメーション映像作家の尾角典子とのコラボレーション。3回の〈Playing〉という実験を経て、夜に〈showing〉があるのだが、わたしは最終形態の〈Showing〉だけを観た。興味深いのは、前回の大谷能生とのコラボレーションの時は「音」がテーマだったのが、今回は「映像」ということで、STスポットの大平勝弘さんもアフタートークで指摘していたように、「音」は踊りながらでも聴くことは可能だが、「映像」は踊りながら見ることが難しいということ。

ではダンサーである岩渕貞太は何を頼りにして動くのか。たぶんそのための〈Playing〉の積み重ねでもあるのだろう。映像とダンスとの息が合っていく、という瞬間は確かにあるようにも感じられる(あ、映像も即興で映し出されます)。ただし、音とダンスでもそうだが、映像とダンスについても、観る側が勝手に同期(シンクロ)させて観てしまうということはありうる。そうした一種の「錯覚」と、彼らのあいだで実際に行われているはずのセッション感覚とは、どのように違うのか。もう少し注意深く観なくてはいけなかったな……。わたしの知るかぎりあまり類をみない試みであるので、興味深かったし、不思議なことだが、観客としてそこにいること(居合わせること)にワクワクする感じもあった。