BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

TPAM期間中の観劇メモ(2)

続いていきます。

 

 

▼子供鉅人『Where is crocodile?』

原宿パフォーマンスプラス+DOMMUNEでも上演されていた作品のロングバージョン。ごくごく簡単な英語、フランス語、そして大阪のおばちゃん語(笑)、によって繰り広げられるので字幕不要。彼らのパワーは確かに炸裂していた。ただ、細長い空間の行き来に作品が依拠したぶん、この作品が(たぶん)本来持ちうるような情緒性("Do you need LOVE?"に関してのそれ)がやや薄らいでしまったかなという感もあった。もっと刺さってきてほしいというか。あと、初見の人は「子供鉅人ってマイムの人たち?」とか思っちゃうかも。とはいえ彼らの持ち味のひとつである、抽象的な悪夢性は現れていると思う。小中太がガムテで縛り付けられていくところがなんか好き。(って書くとまるで変態ですな……)

 

 

▼きたまり/KIKIKIKIKIKI『戯舞』

4人の男たちが、日本語とその翻訳である英語とを逐一喋りながら踊っていく。この翻訳がどうしてもまどろっこしい反復に感じられてしまう。中盤以降、それぞれのキャラクターも見えてきて、愛らしいな、とは思うのだが、観客参加型の演出もあまりノレなかった。たどたどしい英語、というのはなんとなく笑いを誘発するわけだけれども、そこに寄り掛からないほうがいいのじゃないかなー。いい世ではありたい、と思っています。

 

 

飴屋法水との対話

precog社長・中村茜が聴き手になって、飴屋法水の作品『いりぐちでぐち』と『ブルーシート』について飴屋さんの話を聞くというもの。国東といわきで行われていた両作品を見逃していたので、たいへん貴重な機会だった。残念ながら、映像では雰囲気くらいしかつかめない、とも思ったけれども、それでも貴重な資料だったのは間違いない。聴き手の中村茜嬢が、時々、えっ、ここでその言葉使っちゃう?、みたいな感じで不安にもなったけれども、イエスマンとして話を聞くのがいいともかぎらないので、それはそれでよかったのかもしれない。でもあんまり話自体は盛り上がらなかったな、とも思う。盛り上がればいいとは思わないけど。そういうことを期待して聴きに行ってもいない。話を聴いていて、いわきの高校生たちとのあいだに、たぶんこの作品をつくるのに必要なだけの時間が存在したのだな、と感じた。

質問で、上演の記録を残すことについてどう思うか?、という話が出て、横のひろがりと、縦のつらなりについて語っていた飴屋さんの言葉が印象的だった。彼は、自分は後者なのだと言った。子供を育てるように、と。もちろん、くるみちゃんの顔が浮かんだ。ではわたしはどうだろう?、と考えながらその話を聴いていた。メディアに携わる人間としては、一見すると、横のひろがり、を仕事にしているようにも思える。ふつうはそうだ。模範解答としては。つまり、例えば飴屋法水という存在とその作品について、ひろく様々な人に語っていくというような。でも果たしてそのイメージは正しいのだろうか? 自分は実は、多くの人に知らしめたい、という欲望が、そこまで強くないのかもしれないとも思っている。というか、この話を聴いていて、ちょっとそう思った。

 

 

▼冨士山アネット『シャウレイの十字架』

初日のアフタートークに危口統之を呼んだのはよくわかる。この作品が持っている、ある種、建築的に物質を積み重ねて空間や状況を構成していくところから連想されたのだろう。そしてそのアフタートークはかなり面白かった。とりわけ、長谷川寧「戦争はどうして起こるんでしょうね?」危口「代弁したがって熱くなる人が起こすんですよ」というやりとりとか、あるいは危口くんがシモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』から引用してきた「真空」についての話とか。危口統之の中にあるこのある種の諦念というのはいったいなんだろうと思うのだった。さてそれでこの『シャウレイの十字架』だけれども、安部公房、いやむしろカフカのある種の作品を思わせるところがあるし、この「届かなさ」は文学的なモチーフとしてインストールされているのだろうとは思う。ただ、ダンスとして、あるいは演劇として、どちらでもいいのだけれど、舞台作品としてこれを観た時に、なぜこの作品をつくるのだろう、というモチベーションがもうひとつ感じられなかった。いや、危険なプレイをしているのはわかるし、それによって生まれるスリルのようなものがあるのもわかる。でもここがダンスの人たちに時折感じる不満でもあって、その場にいること、その空間が成立していることの根拠が、ちょっと乏しいのでは?、と感じることがあって、この作品にはそれを感じた。男たちが、異なる立場からスタートして、それでも協働しながら、でもやっぱり届かない、という大まかなストーリーはわかる。だけどそれだったらもう喋っちゃったらいいのじゃないかな、と思ってしまう。でも喋らせたくないのだろう。あくまでダンスでありたいのだろう。だとしたらその欲望はなんなのだろうか? そこをもっと掘り下げて提示してくれてもいいのになって気はする。実験的な舞台ではあったと思うし、これまで観たことない種類のものではあったので、そこのトライは買いたい(何様?というのはおいといて)。でも、もういっそ、喋ってよ、という気持ちも。あるいは喋らない/喋れないのだとしたら、その切実さがもっと欲しい。そしたらもっと怖いイメージを見せてくれることになりそう。

 

 

▼21世紀ゲバゲバ舞踊団『崩壊寸前』

前に長者町で観た時に比べると、中心がより無くなっている印象。ダンスというと、多くの場合は振付家兼ダンサーが強い、というイメージが拭いがたくあるけれども、そうではない集団の形成の仕方は面白いと思う。が、当然ながら、中心があるほうが強度は高まる。全体として、どこに定位していいのか、よくわからないところがある。ゲバゲバは今のところ、踊りの「型」(短いパターン)に依拠しているように感じるのだが、それが前に観たものよりも複雑になっていたという印象。ただ、全体を構成するものが弱いのではないかな? それが意図的な狙いによるもの(とその失敗)なのか、単なる無自覚な弱点なのか、現時点ではまだ判別つかなかった。過渡的な作品なのかなという感じがした。男だけから女だけに切り替わるシーンは、おそらくそのフォーメーションの決まり具合ゆえに美しかった。ただもっと、ぐわっと、迫ってくるものが観たい。この壁を突破することはそう簡単なことではないとは思うけど、吾妻橋ダンスクロッシングでの活躍を待ちたいと思う。ところで入手杏奈がずいぶん艶めかしく(もっといえば、だいぶエロく)見えたのは、神里雄大『杏奈(俺)』を経たせいだろうか? ちなみにTPAMショーケースに登録しなかったのはなんでだろ?

 

 

▼平松れい子(ミズノオト)演出「ウサギ小屋、あるいは悪いのはそれではなく、あなたが混乱しているだけ」(AAPA『短い旅行記』)

八番館という、もと売春宿だと思うのだけど、そこで演劇作品が上演され、かつ、黄金町在住のアーティスト・竹本真紀さんが出演するというので観に行った。竹本さんは舞台経験がわずか2回目らしいけれども、堂々としたもので、しかも下手に「演劇的な」演技をしようとしてないのが良かった。自然体、ととりあえずは表現できるけれども、ナチュラルな状態というのは、たぶんそのままではなかなかできるものではない。彼女の存在が、まずこの小さな芝居に異化効果をもたらすことに成功していたと思う。物語としては、母とその2人の娘の話、と見せかけて、実はそれをオーディションのために演じることになっている女3人が、待合室でその役を演じている、というもの。しかし竹本さんのどっちつかずの(いい意味です)演技によって、その状態が、「3人の女を演じている」ものなのか、「3人の女が家族を演じている状態を演じている」ものなのか、シームレスに繋がっているのがポイントだと思う。そこに、それこそ「ゴドー待ち」的なモチーフが加わってくる。いったい何時間待たされるんでしょうねえ、といってお互いの腹を探り合っている彼女たちは、本当は何を待っていたのだろうか。

 

 

▼上本竜平(AAPA演出)「私のアイランド」(AAPA『短い旅行記』)

こちらは八番館2Fのほうで行われる、インスタレーションのような作品。1Fの密閉空間と違って、こちらはひろびろとしていて、開放感がある。出演はペピン結構設計の石神夏希。彼女の生活を覗き見るようにして、観客たちは好きなところに移動しながら観る。シンガポールに幼い頃に住んでいたというおじいちゃんの声がそこに流されている。ただ、このおじいちゃんの声と、ここに住んでいることになっている女の生活とのリンクが、あまり見えてこなかった。石神夏希のたたずまいと、彼女を撮った写真(撮影:菅原康太)は良かったし、観ていて飽きないものがあったのだが、とはいえ、もうひとつ何か仕掛けが必要だったように感じる。もちろん、誰かの生活を(フィクションとはいえ)展示するというこの試みにおいて、あからさまに作為的な仕掛けを持ち込まないのは、一種の倫理的な判断といえるかもしれない。つまり、淡々と生活を描写したいという。石神さんが柱に抱きつくところは実際によかった。やっぱり考えてしまうのだ。ある孤独な女が、ある部屋に住んでいたとして(ある意味、閉じ込められていたとして)、ではその孤独はどうやって埋めるのだろう、慰めるのだろうと。生活である以上(生きることである以上)、これは性的な問題も含んでしまうと思う。それに対する回答があのシーンだった。とはいえ、繰り返すけれども全体にもうひとつ演出的にパッキリさせたものが欲しい。少し甘さを感じてしまう。あとテクストが、いささか(悪い意味で)文学的なポエムのようでありすぎはしないだろうか? 何がこの舞台に残されるのか、もう少し吟味された跡が欲しかった。

アフタートークは、黄金町エリアマネジメントセンター事務局長で、黄金町バザールを企画している山野真悟さん。 話を伺っていると、黄金町はこれから様々な実験的な演劇作品が小さいながらも上演されていく、といった可能性がなきにしもあらずじゃないかなと感じた。近くに住む者としてはそれはとても歓迎したいことです。

 

 

 

これでひとまず、感想つぶやけていなかったものについては書けたかな。