BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

パクチー入り魯肉飯

所用で関内エリアに来たので、中華街。偶然入った台湾料理の店にパクチーふんだんの魯肉飯があってなかなかいける。今度はパクチー入り餃子にも挑戦してみたい。つい昼ビール一本頼んでしまう。てゆうか魯肉飯の写真撮り忘れた。大体からして大事な瞬間みたいなのは撮り逃してしまう。たぶん、今ここ、みたいな時空間に閉じ込めたり閉じ込められたりすることが苦手なんだと思う。だったら嘘をつきたくなってしまう。だから何?、という感じですね。

たぶんわたしはFacebookを信用してなくて、とゆうのはそのログは残るの?、っ思うからだった。mixiは残らなかったよね? ツイッターはツイログとゆう形で遡ることができるのだが。でも残す必要なんてない、ってみんな割り切れてるから使うんだろうし、わたしも大昔のブログに書いたものとか消えちゃったけど、なんていうか、なんだろう、いつ何があってこの命なくなるかわからないし、せめて何を感じて何を考えていたか残しておきたいって今ちょっと思っているのかもしれない。それはもちろんエゴでもあるけれど、エゴだけでもなくて、この時代に生きていた人たち、もちろんアーティストたちも含めて、が、何を考えてどういう生活を送っていたかを書きとめておくことにもしかしたらいつか価値が与えられることがあるかもしれないとかちょっと思い始めているのかもしれない。価値とかなんだろう。今この時代において通用し評価されるそれと未来のそれはきっとやっぱり違ったりするんだろうな。
ところでこれはiPhoneで書いていて、昨日の夜とゆうか朝に書いた日記もiPhoneでだった。iPhoneで書くとパソコンとだいぶ違うのは校正がめんどくさいってことで、だから書きっぱなしの一筆書きみたいになる。でもそれちょっと面白いやんって思う。端正に整えていくとやっぱ消えてしまうものあるし、ただ言葉の流れだけで書いてどこまでいけるかをちょっとやってみたい。森を見ないでひたすら木から木へ。こうした振る舞いにさして現代的なニーズがあるとも思えないけれど、そう、つまりは、文体なのだと思う。若い頃は文体に苦しんでいろいろ研究したのだけれど、結局思うような成果はあげられなくて、要するに文体って単なる技巧の問題ではないのだなと思い知った。いま、昔に比べれば多少は中身があるとゆうか、ある部分は消えてしまったけれど、浮かんできたところもあって、ではどんな文体が可能かを少しずつ探っていきたい。ひとまずは考えない。自動筆記になるべく近い状態で、とりたてて美しさや面白さも考えず、ただ無心で書いてみたらどうなるかをやってみたい。そこからいろいろと異物を投入していく必要はあるだろう。でも今はとりあえず。ビールも一本空いた。この店にはキリンとアサヒが置いてあった。もちろ台湾ビールも。銘柄が選べるお店はビール党的にはありがたい。そうそう、こないだ、違う種類のビールを混ぜるなんてありえない、分子レベルで問題がある、まあ、ハーフアンドハーフは別だけど、みたいな話をしたなあ。そんなふうに他愛なく話をするのはけっこう好きだ。やっぱり人間はあまり時間に追われないほうがよいと思う。もちろん追われて未知の能力が開拓されることもあるけれど。人生楽しむには無為な時間が必要だなって気がする。最近、時間、時間、って時間のことばかり喋っているし、そろそろうんざりされる頃合いにも思うけど、まあ、そうでもないか。時間、時間、って呪文のように言い続けていたらやっぱりそれはそれで見えてくるものがある。