BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

ブローティガンの拳銃(5)

 

*ブローティガンの拳銃(5)

 

▼今日も彼は稽古場に来なかった、というカゲヤマ気象台先生の呟きを読んで、失踪した俳優について考えてみる。

 

▼わたしは「言霊」を信じるタイプで、縁起の悪いことはあまり口にしたくないタチなんだけども、最近、口の悪い友人の影響で、まあ別に大丈夫かという気持ちになってきた。むしろ不幸を積極的に口にしていくような時期がいよいよ到来したのかもしれない。

 

▼失踪した俳優の家にいったら彼は干からびてミイラになっているかもしれず、ミイラ取りがミイラになるというか、幽霊に取り憑かれる、みたいなことになったら目も当てられない。部屋の価値は下がるだろうし、「いわくつき物件」として語り継がれることになるだろう。

 

▼悪魔のしるし『倒木図鑑』では、前作に引き続いて、劇中で演出家が死んでいた。前はミイラだったが、今回は幽霊になって、劇場、そして劇場の成れの果てとしての結婚式場に「出る」のだった。彼は何度も何度もこけて死ぬのだが、その死に様はまるでスペランカー(往年のアクションゲーム)のようにチープである。うようよとゾンビのような人々が現れるシーンもあったけれども、それらも全てどこかしらチープであり、本来「死」というものが持ちうるはずの荘厳さは、意図してなのか結果的になのか分からないけれど、あまり感じられなかった。

 

▼「死」はどうしても敬虔なものとして重々しく描かれることが多いのだが、悪魔のしるしの今回のそれはどこまでもチープで、イミテーション(偽物)感が漂っていた。彼らは何かに「敗北」したようにも感じられるのだが、もしも勝ったの負けたの、ということがあるのだとしたら、その勝負自体もどこかしらイミテーションめいている。そう、あのふざけたシーソーゲームがまさに……(舞台装置。すごく良かった)

 

▼別にこの作品が大傑作だとは思わないし(むしろ失敗作だと言えばそうかもしれないし)、もう褒めるとか貶すとかいったこともわたしにはどうでもいいことのように思われる(それは作品の本質を捉える批評とは似て非なる行為だ)。

 

▼演劇というのは結局は時間芸術なのだと思う。ある時間の中に共時的に存在しながら、かけ離れた時間(フィクション)をそこに召喚してくるもの。その時間をどのように捉えていくかが、おそらくはこの先の、演劇と批評の課題になる。

 

▼その召喚の儀式は、世界への愛に満ちたものであったりする。少し前に同じくKAATの大劇場で行われた快快の『りんご』は、まさにそうした愛のある作品だった。比較するならば、悪魔のしるし『倒木図鑑』はまるで呪いの儀式のようである。KAATはこの公演によって呪いをかけられてしまったわけだ。

 

▼しかしきっと良い劇場というものには、数々の愛や呪いが染みのようにこびりついているのだと思う。そういえば昨日のintro『ことほぐ』のアフタートークで、主宰のイトウワカナに、こまばアゴラ劇場に来てみてどうですか?と訊いたら、彼女は「アゴラ様がいるような気がする」と言った。

 

▼アゴラ様、いると思う。

 

▼おまけ。『倒木図鑑』を観てなんだか「クソゲー」っぽいな、と感じて思い出したのは『たけしの挑戦状』(86年)のことだった。wikiってみたら凄い一文を見つけた。

 

開発陣もたけしのアイディアを次から次へと盛り込んでしまった結果、規格外のゲームに仕上がる結果となってしまった。開発陣としては、このまま発売してしまってはまずいことになるとの自覚も有ったのだが、引くに引けない所に来てしまっていたようである。

 

しかし結果的にこのゲームは多くの人々の記憶に残り、未だに語りぐさとなっている。

 

▼悪魔のしるしは決してやる気がないわけではなくてむしろ演劇に対して真摯すぎるくらいに真摯なのだ。しかしその結果、もんどりうってつまずいてしまうような感じがある。最大限の努力と集中にも関わらず、どうしようもなくそうなってしまう、というものは、わたしとしてはなんだか信頼できるような気がするのだった。

 

▼サンプルの松井周さんがよく「愛嬌」ということを口にするけれど、人間から人間的な要素が剥ぎ取られていってだんだん動物というか妖怪みたいなものに近づいていったら、最後に残るのは確かにきっと愛嬌。

 

▼だから、そんなに目くじらを立てなくても。

 

▼目くじら、って凄い言葉ですね。

 

▼そろそろ違う世界を見に行きたい。

 

 

 

 

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