BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

ブローティガンの拳銃(4)

 

*ブローティガンの拳銃(4)

 

いろいろあって少しやさぐれて、最終的に、いつもの立ち飲み屋に落ち着いた。客は他に誰もいない。中国系なのか韓国系なのか未だ判別がついてない、とにかくいつものややカタコトの店員さんが暇そうにしている。放っておいても平気なタイプだとあちらも分かっているんだろう。彼女自身の考えごとに想いを馳せているふうだった。まあ別に何も考えていないのかもしれない。ニュースステーションが中国の反日デモを報じていた。それにさえも関心はない雰囲気だった。

 

かったるいので時系列的なことを省略すると、店長クラスのおじさんが話しかけてきた。ニュースでどこだかの国(たぶんアメリカ)の火山だか竜巻だかの映像が流れていて、火柱が立っていて、わ、これ凄いねえ、みたいに自然と話が始まった。もう世界のことは全然予測できないな、分からない時代になったねえ、とおっちゃんは言う。談志にちょっと似た風貌の人で、70歳を超えたらしい。

 

東京ゲームショウのニュースが流れたせいで、おっちゃんは、私らの世代はもうついていけない、カシオの計算機が出てきた時でさえ驚きだったのだ、なにしろ対数計算、ルートが一発で計算できたからねえ。ルート? あ、二乗の逆のやつね。当時15、6万円の給料でもカシオの計算機は3万はした。それでも買った。測量技師をやっていたからね、個人的に買ったのだ。小数点以下8桁の計算が求められる仕事だったから。高等学校を出てすぐに大手建設会社のK組に入ってトンネル専門で働いた。みずから希望してトンネル工事に従事した(理由は聞きそびれた)。ともかくあのアーチが安心なのだ。今は家を建てても、地面が流動化したり、安心できないかもしれないけども、あのアーチは安心なのだ。建築構造的に。

 

しかし、落盤事故には3、4回遭いましたねえ。

 

 

昭和36年? 1960年だか61年だかくらいの、K組に入ったばかりの頃、琵琶湖から神戸まで地下水道を掘る仕事をやった。工事は順調に進んでいったが、六甲のあたりで、破砕帯にぶつかってしまったのよ……。それで300メートルくらい流された。もう生きられないと思った。どうやって助かったか? 助けてもらったというだけですよ。

 

おっちゃんの語るトンネル工事の世界はわたしには想像を絶していた。つねに危険と隣り合わせ。そういう世界でしたよ、とおっちゃんは言った。

 

閉店の時間が来た。おっちゃんは、実はね、今日で私はこの店は終わりなんですと言った。ここの親会社の都合で、まあ要するに、リストラですな。そういう約束で雇われたもんですから。あなたは何やら勉強熱心なようだし(と、川端康成全集を指さした、ちょうど『山の音』を読んでいたので)ちょっとお話してみたいと思っていたんですよ。

 

握手を交わして別れた。またどこかでお会いしましょう。握り返してくる手に少しだけ力がこもる。

 

 

こうした話を聞いたからといって、おっちゃんの全てが分かるわけではない。家族構成すらも分からないのだが、なんとなくこのおっちゃんは孤独なのかもしれないと思った。彼自身の孤独を見せてくれたことは、わたしに対するサーヴィスなのかもしれない。サーヴィス……?

 

人間とか記憶とかについて、近頃、どんどん分からなくなっている。もちろん、事実については、ある程度勉強して知ることができるけど。それでもたどり着けないものたち。それでもたどり着けないものたち。そのために、そのために……。その瞬間はなんだか人間ひとりの意図をはるかに超えて、理不尽に、唐突に、やってくるのではないか。

  

 

 

 さうして、ふと信吾に山の音が聞えた。

 風はない。月は満月に近く明るいが、しめつぽい夜気で、小山の上を描く木々の輪郭はぼやけてゐる。しかし風に動いてはいない。

 信吾のゐる廊下の下のしだの葉も動いてゐない。

 鎌倉のいはゆる谷の奥で、波が聞える夜もあるから、信吾は海の音かと疑つたが、やはり山の音だつた。

 遠い風の音に似てゐるが、地鳴りとでもいふ深い底力があつた。自分の頭のなかに聞えるやうでもあるので、信吾は耳鳴りかと思つて、頭を振つてみた。

 音はやんだ。

 音がやんだ後で、信吾ははじめて恐怖におそはれた。死期を告知されたのではないかと寒けがした。

 風の音か、海の音か、耳鳴りかと、信吾は冷静に考へたつもりだつたが、そんな音などしなかつたのではないかと思はれた。しかし確かに山の音は聞えてゐた。

 魔が通りかかつて山を鳴らして行つたかのやうであつた。

 

       川端康成「山の音」

 

 

 

 

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