BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

ブローティガンの拳銃(3)

 

*ブローティガンの拳銃(3)

 

10代の頃、わたしは毎日のように雀荘に通っていたので、その時点で法的にはアウトだったし、社会から落ちこぼれた身であり(後年、その時点ではまだ将来の可能性が幾らでも残されていたぶん、そんな落ちこぼれはまだまだ甘ちゃんだったと気づくわけだが)犯罪者予備軍といえなくもなかった。実際、そういう場所にはかなり雑多な人々が来ていたし、全般的にワルな感じの人が多かったので、その中で、こいつがほんとうに悪い人間か、意外と良い人間か、ということを見分ける修行にはなったのかなと思う。

 

ただ、基本的には一匹狼の巣窟だったので、そんなに悪い人間はいなかった。集団になる時のほうが、人間はよっぽど悪い。それか本当の悪人は、そういう場所には出てこないのかもしれない。みんなそれぞれに傷を抱えているから、他人の傷に対して、意外にもやさしいところがあった。

 

ふと思い出すのだが、雀荘で明け方まで過ごして、常連だった米屋のせがれに、車で送っていくよ、と言われたことがある。少し怖かった。雀荘では何度も顔を合わせていたけれど、その中での関係と、外でも関係を持つというのは、やっぱり違っていて。不安になりながらも、車に乗った。軽トラックみたいな車だった気がする。

 

道中、何を話したのか、あんまりよく覚えていない。なんとなく、人生の先輩的な話だった気もするし、社会からちょっとはみ出した者同士として何かを話したのかもしれない。なんで覚えてないんだろう。ちょっと悔しい。あの人はきっと、今のわたしよりも若かったはずだ。どうしてわたしを車で送っていこう、なんて考えたんだろう?

 

そんなふうにしていろんな人と話した。強がっている人もいたし、そこに綻びを見せる人もいた。年齢が離れているからこそ話しやすいところもあったのかもしれない。細かい話をすべて覚えているわけではないけれど、不思議と、声のトーンだけは記憶している。声の質感みたいなものって、忘れないんだな、なかなか。そしてそこに、親密さというものは、忍び込んでくる。声には親愛の情がひそかに含まれる。

 

わたしは忘れっぽくて、ほんとに、特に最近はお酒を飲んで話したことの大部分を忘れ去っていて、ちょっとひどいのではないか、とも思うのだが、とはいえ、声だけは残っていく。結局死ぬまでにわたしに残るのは他人の声だけなのかもしれない。と思うと、もっと大事にしなくてはね、という気持ちになる。