BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

9/6 ブローティガンの拳銃(2)

 

*ブローティガンの拳銃(2)

 

11月のカゲヤマ気象台先生とのトーク(http://mourokusyarinjikujaya.tumblr.com/symposium)のことも念頭にあって、ついぽやぽやと考えてしまう。というか、そのためにあえてガードをはずしてしまっている……。これはちょっと危険なことだけど。

 

日頃はやはりある程度、感受性のスイッチをたぶん切っている。それでも時々ぽっかりと大穴が開くことがあって、そこから流れ込んでくる奇怪な事実の波をどのように受け入れてよいものか戸惑うことがある。実際、昨日の晩にわたしの身に起きたこと(というかやってきたこと)はそういったことだった。それは美しいが、吐き気をもよおすものでもあった。日常生活は、そういった戸惑いを回避するために営まれているようなものだが、それでもふと、ブローティガンの拳銃の引き金が引かれてしまうことはありうる。そうした最悪の(?)事態を回避するために、現時点で考えうる方法は5つほど。

 

(1)自分の存在や活動に社会的意義を貼り付ける。それは時には使命感のようなものを帯びることもある。究極的にはドン・キホーテのような妄念であっても構わない。

 

(2)快楽もしくは仕事に没頭して考える隙を与えない。これはほとんど中毒者と隣り合わせでもある。つまりエピキュリアンとワーカホリックとは、相反するようでいて何かにアディクトしている点では手を結べるところがある。

 

(3)すべてに納得のいく合理的な説明をつける。ただしこれは原理的には不可能なので最終的には神頼みになる。合理主義者と信仰心とは意外に相性が良いのかも。

 

(4)隠居する。世間から降りる。世俗の様々なものに絶望して、あるいは諦念を抱いて、そこから身をひいて静かに余生を過ごす。経済的な問題もあって、若いうちから実現するのはなかなか難しい。

 

歳を重ねれば生きていくのがラクになるかといえばやっぱりそんな単純な話ではない。(1)と(2)は30代~40代あたりではそうなりやすいけど、それに疲れた時、あるいは挫折を感じた時、(3)や(4)にシフトしていくこともあるだろう。もしもこれらの道を採用するのであれば、しっかりした社会的キャリアを身につけて、安定した仕事と家庭を築いて、それなりに確定した倫理観のもとに生きていく……という既定路線を死守するのが最良の策かもしれない。

 

でも、わたしはそんなふうには生きてきていないので、以上の4つはできれば避けたい。別の道を探りたい。多少なりとも可能性を感じているのは次の項目。

 

(5)移動しつづける。重力から自由になり、自分をどこにも定位しない。とはいえ移動するうちに何ものかにはなっていく。ただしこれにはある程度持続的な体力と気力と移動手段とが必要。

 

これもただ闇雲に動いて無駄なエネルギーを発散させすぎているようでは、いつか力尽きてしまうだろう。いや、人間はいつかは力尽きるのだが……。そう考えればこの文章もただの延命手段の考察にすぎないのだろうか?

 

や、そうではなくて、わたしは新しく世界を認識する手段を見つけ出したいのだった。例えば誰かと接する時、あるいは何か(舞台とか作品とか)に触れた時に、そこに実際に存在しているものたちと、抽象的・観念的な言葉や認識のフレームとを、どのように重ね合わせていくのか。……あるいはもしかしたら、こういった「認識論」という、哲学上の大きな課題設定の仕方がそもそも間違っているのかもしれない。

 

もっとスリリングでいたい。

 

とりあえず今日はこのくらいで。