BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

8/29

 

*ヴァルネラビリティとその美しさについて

 

世田谷パブリックシアターで行われた高校生ワークショップについて、簡単に、雑記を残しておきたい。

 

このワークショップには、プリンちゃんこと、とみやまあゆみが誘ってくれたのだけど、本当に感謝してる。今後一生、足を向けて寝られないな!と思います。世田谷パブリックシアターのスタッフの面々のサポートも素晴らしかった。チームとしてこれほど有機的に動いている現場というのは滅多にないと思う。とりわけ何度もミーティングを重ねてコンセプトと内容を練り上げていく作業に付き合ってくれたヤマダイとふくちゃん、そして現場でお付き合いくださったにらだい、えっしー、そしてインターンのみなとふえこにとても感謝しています。

 

ワークショップが、ひとつのトライアル(試行)であることを考えれば、そこに成功も失敗も存在しないのかもしれない。失敗も含めてひとつの経験ではあるのだろうから。とはいえこのワークショップはやっぱり成功だったと言っていい気がする。

 

そもそもプリンの「窓」へのこだわりからこのワークショップは始まった。窓の中には誰がいるのだろうか? その目に見えない、だが気配だけは発している存在の、ある種の気持ち悪さのようなものの前に留まってみること。想像してみること。それが出発点だった。

 

ただし、「想像」は果たして可能なのだろうか? それが適当な妄想で終わってしまったら、結局のところ他者に到達することなく、自分の脳内を写した鏡像(の矮小化されたもの)でしかなくなる。他者(隣人)に向かっていくためにはどうすればいいのだろうか? そのために、なるべく具体的な素材をフィールドワークで集めてきてもらうことにした。

 

 

それと参加者たちは、おそらく「演劇ワークショップ」と聞いて、ある先入観を持ってやってくるだろうと予想していた。それはやむをえないことだし、けっして間違いではない。ただ「演劇」には様々な可能性と幅がある、ということを伝える必要もあるとは思った。「演劇は自由なのだ」と伝えること。これが裏テーマになった。

 

というのは、人間は、すでになんらかの社会的な訓練を施され、ある環境下に馴らされ、それによって様々な身体や言葉の癖を持っている。例えば、テレビをよく観る子は、お笑いやバラエティ番組の物言いを知らず知らずのうちにインストールして自分のものにしてしまっている。わたしは社会学の用語にならってこれを「ハビトゥス」と呼んでいるけれども、演劇は「演じる」という行為によって、このハビトゥスの裏をかき、言葉や身体の自由を取り戻すことのできるメディアだと思う。今回はそのようなものとして演劇と戯れてみたかった。つまり、自由へのツールとしての演劇。

 

 

しかし実際に始まってみると、もうとにかく参加してくれた高校生たちが素晴らしくいい子たちで、そのことに感動しっぱなしだった。素敵な時間をありがとう。

 

まずコミュニケーション能力の高さにも驚いたけれども、最初に「あっ」と思ったのは、名前を呼び合って移動するゲームの時に、なんというか、見知らぬ他人へのやさしさを感じたのだった。もちろんシャイだったりはするけれど、これから4日間を過ごしていく仲間(になりうるであろう人たち)に対して、この子たちは閉じてないなと思った。

 

しかし、やさしさとはなんだろうか?

 

感性の鋭い子どもたちにとって、この世界はけっして生きやすい世の中とはかぎらないと思う。それはわたし自身の10代の頃を省みてもそう思う。あの頃のわたしはたぶんめちゃめちゃ世の中に対して鋭敏だった。ヒリヒリするような肌感覚をいつも感じていたし、アタマの中はつねに何かしら回転しまくっていた。けれどもそうした自分の感受性を世の中とうまく折り合わせていくのは難しくて、わたしは別に、特にいじめられるようなこともなかったけれど、学校からは次第に距離を置くようになり、居酒屋や雀荘に毎晩通って、歳上のオトナたちと話してばかりいた。オトナと話していると安心した。良くも悪くも、自分が傷つけられるような怖れはあまりないからだった(実際にはたびたび傷つけられたけれども)。

 

だんだん歳をとって、あの頃のような鋭敏さは自分の中からはなくなっていった。自分にもしも色があるとしたら、それはやや濁りを帯びていったのだと思う。わたしの場合はそうしなければ身を守ることができなかった。だんだん汚れていくことで、感性を鈍らせていくことで、周囲の穢れをやっと引き受けていくことができるようになった。それは良かったのか悪かったのか、分からないけれども、たぶん結果的に、わたしが今のような編集者の仕事をしているのは、こうした履歴があったからなのだと思う。様々な情報を仕入れ、処理し、編集するというのは、(かなり言い方は悪いけれども)ちょっと清掃工場にも似ている。何人か、よく知っているいわゆるアーティストタイプの人たちを見ていると、彼らにはそのような濁りはない。もちろん彼らも辛苦は舐めていて、様々に人生の闇に触れてはいるけれども、みずからを濁らして感性を鈍らすようには世の中に接していない。あくまでもキラキラしたままに、世の中に立ち向かっていける。それがおそらく、生粋のアーティストなのだ。わたしの場合は違う。わたしは清掃工場の人間である。自分が穢れることでしか世の中を受け入れていくことができない。それでも役には立つ。世の中を少しは綺麗にできるし、傷つきやすい才能や感受性たちが、無用に傷つくのを防ぐことだって時にはできるかもしれない。そういう強さを得ることに、何年も身を捧げてきたのだから。

 

 

今回参加した高校生たちのやさしさや感受性は、ヴァルネラビリティ(傷つきやすさ)の裏返しなのかもしれないと、後から思った。最近は「スクールカースト」という言葉が流行っているらしいけれども、そういった便利な言葉によって、個々の人間のヴァルネラビリティが隠蔽されないことを願う。

 

ヴァルネラビリティは、果たして弱者の証しなのだろうか。そうとも言えるが、そうとも言い切れない。わたしはこの10年間、そのことをずっとどこかで考え続けてきたような気がする。もちろん傷つきやすい人間が、他の人間が受けた傷に対して思いやりを発揮することができる、とは言える。つまりそこには、共感・共苦の共同体が生まれうる。その解釈はおそらくかなり正しいというか、実際世の中でそうしたことは起きているし、必要でもあるだろう。しかし……それがヴァルネラビリティの真の本領発揮ではないような気もするのだった。

 

これはまだうまく言えないけれど……人間はやはり結局はひとりなのだ、と思っているところがわたしにはある。どんなに親しい友人や仲間がいても、あるいは恋人や家族がいたとしても、やはり究極的には人間はひとりなのではないか。その時に、そのひとりであるところの人間が、傷ついている、とは、どういうことなのだろうか?

 

わたしはそこに……ちょっと語弊がある言い方だけれども……美しさのようなものを感じるのだった。ある人間が、この世界にたったひとりでいるほかない人間が、無限の世界を前にしてその傷を胸に抱えているという様は、ちょっと他に類を見ない美しさを放っているのではないかと思う。その美しさによってしか、その人自身の存在が救われないというようなことがあるのではないか、とこれまで出会ってきた人たちを思い浮かべながら、わたしは思うのだった。そしてその美しさが、他人を感動させる、ということがきっとあるのではないだろうか?

 

こうした発想は危険かもしれない。ある人間の傷を「美しさ」という言葉で回収してしまうことにもなりかねないから。だけどわたしはそこにどうしても惹かれてしまうのだった。というか、究極的には、そこにしか救いがないような気がする。

 

わたしはやっぱり美しいものが好きなのだった。(けれども、それがナルシスティックな美意識とはまったく無縁というか全然別のものだということは、ここまで読んでもらえれば分かると思う)

 

ある人間が、他人を感動させる、ということは、素晴らしいことだとわたしは思う。人の心を動かすというのは、ちょっと、凄いことだ。演劇に魅入られているのも、もちろんそれが感動を呼ぶ芸術だからである。

 

 

そしてこのワークショップでもうひとつ思ったこと。ついこのあいだまで、演劇は、何人かで集まってやるところにその本領がある芸術だと思っていた。しかし4日間の濃密な時間を過ごしていく中で、あっ、もしかしたら演劇は、最終的には「ひとり」というところに賭けられているのかもしれないなと感じた。

 

それはやはりひとつには、高校生たちの言葉や身体が、それぞれにバラバラなんだな、と感じたところにも拠っている。集団でいる時の彼らは、キャッキャウフフしていて、いかにも高校生だけれども、ひとりひとりで見せる表情というのは、もうオトナなのだな、というか、一個の人間なのだなと思った。

 

それとオトナ組のプリンとヤマダイとわたしとで、それぞれに一人パフォーマンスをやったのも大きいのかもしれない。プリンもヤマダイも、孤独なひとりの人間がこの世界に存在するのだというフィクションを、それぞれのやり方でやってのけた。わたし自身のパフォーマンスについては、機会があればまた別に語る(かも)。

 

 

とにかく今回のワークショップは、わたしの人生にとって大きな大きな経験をもたらしてくれた。今後、自分の書くものが、彼らに読まれるかもしれない、という可能性を考えると(それが実際に読まれなくても)、違和感を与えるのは全然構わないけど、彼らを失望させるようなものは書いてはいけないな、と思った。