BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

8/28 

 

*世界の修繕システム

 

すっかり日記の書けない身体になっていた。この夏は、そうだ、旅をした、しましたね。それなりに夏を満喫して、わりと仕事もしている。特に高校生ワークショップは人生を変えてしまったかもしれないくらいの素晴らしい体験だったなー。その振り返りもしておきたいけど、その前に、今日、さっき、朝、突然かかってきた電話について。(リハビリ中なのであんまりうまく書けないかも。)

 

わたしは他人のことを憎んだり嫌いになったりすることが滅多になくて、それはある意味では不干渉(不感症)なせいかもしれない。まあそれはともかく、しかしこの世界に2人だけどうしても許し難い人がいて、電話はそのうちの1人からだった。10年ぶりだった。

 

相手は錯乱状態にあるらしく、まあとりあえず呼吸が整うのを待ち、ひとしきり話を聞いた。何年か前に結婚して子どもを産んで、特に不自由のない暮らしを送っている、しかし、人生が虚しい……とかとか。相変わらずだなあ、と思った。いつも「いまここ」に不満を持ち、「ここではないどこか」へ行けば全てが解決するかもしれないと思っている、甘ちゃんなのだ。確かに精神的な病気のせいもあるのかもしれない。でも人間、どこかで覚悟を決めないと、どうにもならんじゃろ?

 

いい機会だと思って、あなたに振るわれ続けた暴力のせいで、あのあと数年間、わたしはとても苦しんだのだ、と伝えた。そして、謝ってほしい、と謝罪を要求した。特に恨みや意地悪な気持ちもなかったのだが、手続きとして、そうしておいたほうがいい気がしたから。そして謝罪を受け入れて、赦した。しかし相手は、こんなの一回謝って済む問題じゃないし、もし償えるならなんでもするからその時は言って、と泣くのだった。

 

ちがーーーう! そういうところがダメなのだ、と思う。もちろんこんなのそう簡単に赦せるものではない。それでも、たとえ儀礼的な赦しにすぎなくても、何事かは少しずつ機能し、少しずつ、様々なものが修復されていくだろう。世界にはそのような修繕のシステムがある。「赦す」という言葉をあえて使ったのは、そういう修繕システムに、この案件を任せてもいいやと思ったからだ。たとえそれが儀礼的なものであっても、少なくとも、封印されていた過去は少しずつ動き出した。それでいい。あとは時間が解決してくれる。血気盛んな真実や正義だけが、世界を救うわけではない。

 

誰にどう思われるとか、嫌われたくないとか、そんなひ弱な優しさにはもううんざりだ。わたしが欲しいのはもっと強いやさしさ。世界の修繕システムにアプローチしていくようなやさしさ。

 

自分というつまらない牢獄に押し込めている看守は、実は自分自身なのだ。

カギはいつも置いてあるのだから、いつでも、好きな時に、出ていってよろしい。

 

 

それにしても過去とはなんだろうか? あの時こうだったら、こうなったかもしれない、というパラレルワールド(ありえたかもしれない別世界)を想像することは、わたしにもある。この現実が、様々にありうるパラレルワールド(選択肢)のひとつにすぎないと思うと、むしろわたしは、ちょっと気持ちがラクになりますね。

 

もしも現状に不満があるのであれば、それを変えればいいだけの話。だって、今あるこの世界だけが、唯一の世界ではないのだから。

 

どうせいつかは死ぬ、けど、虚しくはない。そう思えるまでにはけっこう長い時間がかかった。20代の頃はいつも死にたいと思っていたし、それこそ高校生の頃とかも、心はだいぶ荒んでいた。居場所の無さが辛かった。世界とのあいだに生じる違和感を埋める(繋ぐ)術を持っていなかったせいだと思う。

 

でもちょっとずつ、いいオトナに出会った。彼らから学ぶものは大きかった。中にはもうすでに、死んでしまった人たちもいる。時々わたしは彼らのことを思い出して、ひとりで喪に服すようになった。滅多に泣かないけど、そういう時は、自然と涙が出たりもする。そういう喪の作業に服すようになってから、わたしの中に巣くっていたあの自己破壊願望のようなものは薄れていった気がする。この世界を丁寧に見ていきたいと思うようになった。しばらく忘れていた好奇心、未知のものへの冒険心が、またアタマをもたげてきた。つまりは、死者に突き動かされて生きているようなものだ、わたしは。今はその好奇心に身を委ねてみようと思ってる。

 

このあと10年経ったら、また違うことを考えているかもしれないから(たぶんそうだろうね)、とりあえず今この時点で思うことを記しました。