BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

辺境にて

 

*辺境にて

これはリアルタイムで書きつけているものではなくて、旅の途中で書いたものだけど、いま、気ままな一人旅をしていて、数日間プラプラしたところでなかなかの、ちょっと驚きの秘境に辿り着いた。日本にもまだこんなところがあるのだなあ。(失礼な物言いだけど)辺境の地で人と話したりして、だんだん正気を取り戻しつつある気がする。東京にいると日々いろいろ余計なものに取り囲まれているのだなあ、ということをまさに実感しますわね。

 

メールは挨拶程度にしか返してないし、唯一例外として、佐々木さんとちょっと密なやりとりをしたけど、基本、仕事はしてません。行き先も誰にも告げてない。藤田くんに訊かれたので最初の出足の方向だけ教えたのと、途中、知りたいことがあって橋本くんにメールで通過点を明かしただけ。そもそも、わたし自身も行き先を知らない。ほんとに風まかせ。

 

ツイッターのつぶやきはここ数日全然読んでない(トヨタコレオグラフィーアワードの結果だけは調べた)。まとまった論考や小説より、断片的な文章が読みたいな、と思ってたまたま手にしたベンヤミンの『パサージュ論』を手慰みに引用しているだけで、この旅のことはツイッターには書かないし、遭遇した出来事についてあとでブログに書くようなこともないだろう。ここで見たもの、聞いたものについては、たぶん誰にも話さないと思う。お土産を買うとその土地の痕跡が見えるから、という理由で、誰にも買わないつもり。とにかく一人で完結させるということを今はしてみたいのです。

 

 

*批評についての、やめました君への応答

さてそんな状況ではありますが、@(メンション)が飛んできたので、ついリンクされていた、やめました君こと山下望君のブログ(http://yamemashita.blogspot.jp/2012/07/3.html)を読んでしまい、今(精神的にも状況的にも)そんなモードではないので申し訳ないがスルーさせていただこうと思ったが、彼なりの真摯さがあってのことだと思うし、批評家養成ギブスの人たちにリンクを飛ばされてしまった以上、無駄に誤解をされるのもよろしくない気がするので、まず簡略に事実関係から訂正させていただくと、「馴れ合いだ」とか憤ったのはやめました君の当のツイートに対してではなく(目の端には入りましたが)、むしろ他の人のつぶやきに対してが中心でした。

 

しかしまあ、誰が言ったとか言わないとかの事実関係は今は正直どうでもよくて、先に進めたいと思ったからこれを書いているのですが、むしろ興味深いのは、やめました君なりの「批評」への向き合い方のことで、やっぱりブログを拝見するかぎり、自分は「アラザル」という同人誌があって楽しいからそれでいい、いつか自分の批評が別の形で世に認められることがあればいいのだ、と言っているようにも聞こえてしまいやしないだろうか?、ということです。(さすがにこれはちょっと矮小化しすぎかもですが、以下、思考実験的、あるいは挑発的・煽動的な問いかけだと思ってください)

 

職業批評家・文筆家の縮小再生産や予備軍になりたくない、という心意気は結構なことだと思うけど、ではどこに向かうのか? それは一人前の書き手として「評価」をくだされてしまうことからの逃げではないのか? 別に「シーン全体」とかに貢献しなくてもいいけど、だとしたら、その批評はなんのためにあり、誰によって支持されるのか? 文学フリマの常連たちに、だろうか? それは結局のところ、自己承認欲求をある程度満足させる、ということとどれくらい違いがあるのか?

 

ところで、わたし自身が日々生きている感覚からすると、優れた批評を待っている作り手たちはたくさんいるし、もっと批評が機能すれば創作活動もより活性化するだろう、という感触も強く持ってます。ところが実際には優れた批評は全然足りてないし(少なくとも演劇と映画に関しては確実にそう言えると思う)、多くの人たちの不興や不満を買っているというのもある程度は事実でしょう。(まあさすがに最近は「批評って要らないよね」的な愚かしいというか幼稚な物言いに対しては一笑に付す程度の返しでもういいやと思っていますが。とはいえ、ね。)

 

そんなこんなで、やはり「批評」は現在と何かしらの形で切り結ぶものではないか?、と思っているのです。(これは、現場性を優位に置く、という意味では全然ないです、あしからず)

 

 

仮に、純粋な批評そのものへの欲求や研鑽、といったものがあり、それが現世的な成功願望と切り離されるものであったとします。わたし自身も、成功願望ガツガツみたいなのは全然好きではないけれども、かといって、作り手たちはなんだかんだいっても成功願望を何かしらの形で持っているのであって(持ち方や出し方は千差万別ですが)、彼ら彼女らとやり合うにあたって、現世で成功する(力を持つ)という志向性抜きにやっていけるのだろうか?

 

補足的に言うなら、わたしは、言葉は(本人の希望と関係なく)何かしらの力を持って発動してしまうので、むしろその力を自覚したほうがいいと思ってます。ただ、そこは人それぞれのタイプもあるだろうから、別に、それだけが批評の正義だ、とかまったく思いませんが、とはいえ、そういう力の問題を抜きにして考えるというのだとしたら、あまりにもナイーヴだし牧歌的だよと思えてしまう。そうした一種の——こう言ってよければ——残酷さやスリルを抜きにした言葉が、あまり面白いとは感じられないのです。

 

もし、純粋なテクニックの追求こそが別種の批評をもたらしうるのだと信じるなら、それこそ超絶技巧並みのテクニックの(血が流れるくらいの)研鑽が求められるのではないか?

 

まあわたしとしては、なんだかとてつもない批評というものが読めるのであればそれで全然いいので、それが生まれてくるのであればなんでもいいのです。この文章自体が多くの誤解を孕んでいることでしょうが、言った、言わない、みたいなことは超えて(申し訳ないですけれどもそういったやりとりをする時間はまったくないのです)、よりスリリングな研鑽を積んでいただけたらと思います。

 

わたしはわたしの道を行きますので。