BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

6/29 デモの「声」について

 

*デモの「声」について(2012.6.29)

最初ツイッターについて投稿するつもりで書き始めたのですが、EURO2012の名勝負の最中でもありますので、こちらに書くことにします。あんまりまとまってないし、まとめる時間もないのですが。

 

 

脱原発」あるいは「反原発」のデモに対して、過激な主張だと平行線を辿るだけで対話が成立しないんじゃないの?、といった意見があるのもまあ分からなくはないです。確かにデモの規模が大きくなったり、緊迫した状況が差し迫ってきたりすると、感情的になることも増えると思うし、わたしは、自分の「正義」に囚われてしまって敵味方に分かれてしまうような状態があまり好きではないのも事実です。

 

しかし、それでもわたしは今回の首相官邸前の脱原発デモを擁護したい。

 

まず前提として、わたしは、人間はそこまで理性的な生き物ではないし、つねに合理的な判断がくだせるわけではないと思ってます。人は何かにとらわれて怒りや悲しみを抱くものだし、その感情を蔑ろに出来ないと思う。特に今の状況は、怒ったり、悲しんだりいられないほうが、不思議なくらい。平静でいられるということ自体が、異常な事態。そういう世界。に生きてる。

 

そんな中にあって、デモは、感情や動きをなかなか表出できない日本人の事なかれ主義的メンタリティと、言論状況、そして政治の在り方を変えるかもしれない(ジャスミン革命ほどでないにしても)。だからもっと噴出したらいいと思う。そんなにスマートじゃなくてもいいし。

 

例えば1960年代のべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)では、お祭り市民、要するに不マジメで単に楽しいから加わってる人もいたらしい。そういうよく分からん存在がデモに力を与えていたと(発起人の一人の)小田実は述懐しています。デモってそういうもんだと思ってる。少しくらいいい加減なくらいがいい。

 

以上が前提で。

 

確かに意見の異なる人たちとのネゴシエーションはこれから先、必要かもしれない。どこかで妥協点を探っていくことが、場合によっては求められるかもしれない。しかしそれは高度な交渉技術と状況判断を必要とするものです。

 

政治の世界でよく知られる「妥協」としては、例えば1980年代のポーランド民主化運動がありますが、要するに時のポーランド政権の親玉たるソ連の軍事的脅威と、国内の民主化運動の気運とのあいだで、どのように舵取りするかが求められた(詳しくはwikiってください)。結局は段階的に民主化したけども、それも人々の「声」があったからです。それが組織を支え、動かし、政治家たちを交渉の席に着かせた。

 

つまり、ある政治的な主張や、民衆的な情念の噴き上がりは、たとえ少数であれそこに「声」があることを示す。それさえも無ければ「無い」と見なされるだけ。政治とはそういう冷たいものだし、いろんな回路を通じて動かしていくしかない。デモも(絶対唯一ではないが)そのひとつだと思う。

 

そして、使える回路は使ったらいい、とわたしは思います。こっちの回路のほうがより正しい/効果的だから、あっちはダメ、というふうに考える必要はないと思います。あれもこれもやればいいのです。それぞれ向き不向きもあります。 

 

 

例えば今の日本の議会は重要案件に関してほとんど機能しなくなってるので(ここまで機能しないのは明らかに異常)、ネゴシエーションの舞台は、むしろ大企業の株主総会だったりするのかもしれない。少なくとも「声」は企業に対しても一定の圧力として機能しうるはず。フィールドはいろいろある。

 

政治家だって(議会制民主主義は機能してないとはいえ)何もしてないわけではなくて、例えば超党派で、2050年頃までにどうやって段階的に脱原発していくか、勉強会をひらいて調査・提言している政治家グループ「原発ゼロの会」なども現れているらしい。ちゃんと調べていないので(今仕事が忙しすぎます、ごめんなさい)どの程度信頼できるのか現時点では分からないけど、ただそうした活動も「声」がなければ失速する。

 

いずれにしても結局のところ、政治的権力や経済力、そしてそれに正統性を与えるような民意、といったパワーゲームの綱引きによってしか、対話はありえないと思います。それらがある条件を満たして、初めて、交渉の席が生まれる。

 

だから「声」をあげて少しでも何かを動かしていくしかないのだと思う。動きが生まれれば、それは思いもかけないうねりや波紋になったりもする。流動性がなくなったら、ただ、無くなるだけ。黙殺されるだけ。

  

とにかくまず「声」が存在するのだということが、無視されないでちゃんと認知されるということ。これが何より大事だと思います。時には、かっこわるくてもさ。泥まみれでもさ。歴史上、そうやって、訴えてきて、それでも聞き届けられなかった人たちがいたよ。でも、何か、少しだけ届いた、ということもあった。そういうこと、でしかないんじゃないか。そこからやがて、議員なり、デモの代表なり、大企業なり、電力会社なり、地方自治体なりが対話のテーブルに着く、といったことも起こりうるのではないか。

 

動かなければ犬死にだ。

 

そして、もういい加減、動かないことを正当化するようなことは、すまい、と思う。

 

今はまず、「声」をあげ続ける時ではないのか。たとえ数万人集まったところで人口1億数千万のごく一部かもしれないけども、そこには大きな「声なき声」が今も本当にあるのだと思う。

 

台風が福島に向かうたびに、地震が福島で起きるたびに、ひやっとする。そのたびに「福島第一原発では”新たな”異常は見つかりませんでした」とアナウンサーが喋る。「新たな」ではない異常は、もはや日常になってしまった。そして日本はどこも毎日のように地震で揺れている。震度3。震度4。……

 

それに前々から言ってるけど、たとえ直下型地震や津波がこなくても、テロの標的になったら原発は凄く危ない。日本のセキュリティ能力をわたしはそんなに信頼してない。サイバーテロに対してもほぼ無防備じゃないか。原発はリスクが大きすぎると思う。

 

それでも原発は再稼働されようとしている。

 

魚は食べられるのだろうか? 野菜は? 肉は? ゴミは燃やせるの? 子供を安心して産み育てられるの? 本当にあれは、これは、「安全」なの? 誰の言うことが信用できるの? という日本。そういう世界。に生きてる。

 

あまりに問題が複合的すぎて、それを、ごくごく単純な「声」としてしか現せないということがあると思う。何度でも繰り返すけど、まだまだその「声」は足りない。

 

ここで黙ってしまったら全世界にも、子供たちにも、顔向けできないかもしれない。そういう世界。に生きてる。素朴に言うと、わたしはやっぱり郷里に原発が出来てほしくはない。人が住めない、死の土地にはしたくない。

 

 

わたしは今夜、首相官邸に行くことはできないので、こんなの書いてもいかにも岡目八目的で、いけすかなくて、しかもわざわざこんなこと書きたくもないのに書いていて、そんな自分がイヤですが、まあそれぞれの持ち場もあるし、言わなければ分からないこともあるという世の中になってしまったのだなあ、と思って悲しんでこんな駄文を書いてます。悲しいです。

 

友人たちがきっとデモに加わっているんでしょう。わたしだけではなくて、誰でも、「友人の友人」くらいにまで範囲を拡げれば、デモの群衆の中に、その姿を見つけられるんでしょう。その人に対してどんな言葉をかけるか? わたしの場合は「今日は行けないけど、頼んだ」と声かけたいと思います。

 

 

 

↓ちなみにこれはデモではなくてスタジアムの写真なんですけど。

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