BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

5/29 山田屋→斉藤酒場

 

*ながーい目で見てください

書かなきゃならないことは山ほどあるのだが(特に鳥公園『すがれる』の、初日とは打って変わっての千秋楽の素晴らしさとその演劇的達成についてとか)、とりあえず今日の日記ということで書くと、バナナを買った。バナナを買ったんだ……。たったそれだけのために十条の八百屋&果物屋を数軒回った。いい町だなあ、十条。とにかくこれで明日の朝は大丈夫。しかし、さんざ歩き疲れてあらためて思うのは、誤解を招く言い方かもしれないけども、わたしはやっぱり「凡庸さ」をつくづく憎んでいるのだなあということ。「正義」や「常識」を盾にして他者を排斥しようとする凡庸さ、そして判で押したようなそのコピペの嵐が、ほんとうに嫌い。

 

恐ろしいのは、誰だって(わたしだって)それに取り込まれてしまう可能性があるということ。この国では今でも平気で魔女狩りが起こりうる。何かが磔になっているのを見てそれを魔女だと信じた人たちは喜んで石を投げるだろう。ついでに自分の毒を一握りしのばせて。もちろん自分では正しいことをしているのだと思っている。世のため、人のため……。魔女を世にはびこらせておくのは危険だから。悪だから。被害者がいるから。でもちゃっかり毒は混ぜる。日頃の鬱憤もあるから。

 

わたしは、その対象が実際に魔女であろうがなかろうが、ともかく、そうやって石を投げる人々の群れからは離れようと思う。群集心理に乗っかって「投げる」側に同調するのは醜い行為だと感じるから。その中に自分を置くことは耐え難い。そうして離れた場所で何ができるか/するか/する必要がないか、を考える。

 

いちおう物を書く身として思うのは、筆一本(とは今は言わないか?)で闘っていく気概は持っていたいということ。世の中が一斉に「白」に走ったとしても自分が「黒」だと信じるのなら「黒」に賭け続けるという気持ち。たとえ石を投げられる側に立たされたとしてもそうだ。

 

もちろん書くという行為には責任も生じてしまうから、それなりの情報収集と、冷静な判断力が必要になる。しかしどんなに素材を集めてみてもいつも正解のくじを引けるわけではない(というか正解なんて無いのかもしれない)。自分も含めて誰もが誤りうるのだ、という可能性も見ていないとむしろ危険なことになると思う。単に頑固にみずからの意見を主張したいとは全然思わない。柔軟さと、広い視野を持ってたい。そのへんのハンドリングは職業的な勘によるのだと思う。わたしはまだまだ未熟者だけれども、その勘は磨いていきたいし、常に闘える状態に身を置いていたい。

 

そして自分がどこに立つのか、という立ち位置のことはいつも考える。たとえひとりになっても必要なら闘うんだよ。何かに同調して乗っていくのじゃなくて。

 
 

 

芥川の『藪の中』のことを考える。「真実」はどこにあるのだろうか。誰しも複雑な事情を抱えていて、いつも法律や裁判によって全てが解明されるというわけでもない。司法というものは、むしろその限界を良くも悪くも心得ているものだ。法廷で嘘をつくことは許されないが、かといって、喋りたくないことはあるし、喋れないこともある。言語の限界もある。だからこそ文学や芸術が生まれるのではないか? 闇。死に隣接した領域。悪意や毒や、ちょっとしたボタンの掛け違いによって生まれてしまったようなもの。不可逆的な時の流れの中で、少しずつ歪みを蓄えてしまったようなそれ。いつもそういった闇はどこかにあるのだと思う。ひらべったい言葉ばかりが広がっていくと、闇はますます、手の届かないものになる。そしてどこかで暴発する。それも取り返しのつかない暴発。死者が出る。暴力は連鎖する。それは反復される。何度も何度も。人類がどんなに進化したかのように振る舞っても、やはりそれは、暴発する……。

 

悠久の時の流れの中で自分にできることなんてほとんどなく、まったくの無力といえばそうかもしれない。しかしせめて、闇を無きものにしていくのはやめよう。ただその闇を認識するにはとても長い時間がかかる。2日か、3日か。あるいは数ヶ月か。数年か。……ある闇を見つめ、そこに留まり続けること。明るみでしか棲息できないような、薄っぺらな言葉に飛びつかないこと。

 

おそらく必要な時に必要なことをするタイミングはやってくるだろうからそれまで待ちます。きっとそう遠くないうちにそれは来るでしょ。

 

 

今日は小松政夫の往年のギャグ「ながーい目で見てください」を思い出したりしていた。結論を急ぐ風潮ますます盛んな昨今ではありますからね。ぴよーん。

 

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