BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

5/19 モラトリアム

 

*東京デスロック『モラトリアム』初日速報

ゆうべ、とある小説を半分くらい読んで寝オチして、例によって酷い悪夢を見たけども、起きたら至極快調だった。富士山がうっすらと見えた。雲ひとつないお天気。

 

湘南新宿ラインで横浜に向かい、路地の古い中華そば屋でタンメンを食べてから、東京デスロック『モラトリアム』@STスポットへ。13時から21時まで、ずっとそこに居た。驚いたことに予想より全然ラクで、楽しくて、まだあと1、2時間は余裕でいけそうだと思ったくらいだけれども、21時でモラトリアムは終了というお約束なのだ。

 

詳しくは明日の公演を楽しみにしてる人もいるでしょうから書かない。多田淳之介とエンリク・カステーヤの融合を見たような気がする。かなりいろいろな刺激を受けた。サプライズもあった。これは後々、語り継がれるものになりそうな予感。

 

あとイギリス帰りの大谷能生の無精髭が素敵だった(笑)。

 

 

*秘密について

最近、お酒を控えめにしているせいか(当社比)、twitterでもそんなに大それたことを口にしてないし、Facebookはほぼ活動の告知しかしてないですから、このブログがわたし自身の考えていることを最も率直に出しているということになるんでしょう。とはいえ、やはりこれはブログナイズされた文章にすぎないのであって、自分の感じていることを100%正直に書いているなんてことはなく、結局のところ、そんなつもりはないにしても何かに媚びているのでしょうね。例えば、ブログ的文体とかそういうものに。

 

わたしは自分についても、他人についても、すでに多くの秘密を抱えていて、これはおそらく一生どこに書いたりすることもなく墓場まで持っていくんだろな、と思うと、他人の書いたものや口承についても疑問が生じてくる。いったい記録として残されるものにはどれくらいの信憑性があるんでしょう? あるいは、そこに記されない出来事の多さたるや……。その秘密というのは大部分がおそらくは、淫靡なもの。仮にどこかで、あけすけに全てを語る、という方針に切り替えたら、果たして人生はもっとラクになるんでしょうか?

 

なんとなく答えはNOっぽい。

 

淫靡な領域と、公共性というものは、基本的には相性が悪い。この問題はずっと(別の形であれ)議論されてきたことだし、比較的最近の小説では伊藤計劃『ハーモニー』がそれをダイレクトに扱っている……。とはいえ暴露すればよいというものではない。せいぜい誰かの眉をひそめさせる程度のことにしかならなくて、それによって誰かが救われたり世界を構成するものが劇的に変わるとも思えない。自爆的テロリズムは、結局のところ一瞬にして世間によって封じ込められるか呑み込まれるかするだろう。

 

だからこそフィクションが要請されるとしたら?

 

話は変わるようで変わらないのですが(そして毎度引っ越しネタで恐れ入りますが)、今日も横浜に行って思ったのは、横浜よりも高円寺のほうが様々な点でのスペックの総合点が高い、ということ。だから単純に点数だけを比較するのであれば高円寺に留まるほうがよいのでしょうね。でも点数ではない何かが確実に横浜にはあって、そのひとつは、淫靡さ、だと感じる。高円寺にだってもちろん淫靡さはあるに極まっているのだが、高円寺のほうがもうちょっと綺麗に隠蔽されてしまう感じ。

 

そういう淫靡さを含んだ人間の造形と、町のありようと、そこから生み出されてくる文学的なもの(と言ってもいいでしょう?)に今興味がある。最近そればっか言ってる気もするけど。