BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

5/16 朝のオバケ、それから「hb paper」のこと

 

*朝、オバケが出たよ

今朝は(空港に行くのとかを除いては)おそらく自分史上最も早起きをして某所に向かった。6時10分集合。アメヤさんちのくるみちゃんとはすでに何度も一緒の場に居合わせているのに(というか書籍にまで登場してもらってるのに)なかなか懐いてくれなくて、哀しい、と思っていましたが、今日はかなりの上機嫌で、遊んでくれた。けど、完全に「オバケ」扱いだった。ま、オバケでもいいか……。きっとピグモンとかスパイダーとか見えない星人とか、そのあたりの素敵なお仲間の列に入れてもらえたのだと思うことにします。

 

それはさておき、この朝の集まりでは何か、新しい時間感覚に触れたような気がしたのでした。写真もたくさん撮ったけど、今は詳細は伏せておきます。

 

 

10時すぎくらいに解散して、眠いけどなんだか歩きたくてひとり、てくてくと散歩をしていった。だいぶ歩いたと思う。海に近づいた。東京の海は、ハッキリ海という感じではなくて、川なのか、河口なのか、なんと呼んでいいか分からないけど、この曖昧で人工的な境界こそが東京らしさの象徴といえるのかも。大きな船が停泊していて、そういえば小さい頃は毎年のように、港の写生大会に参加して船の絵を描いていたのだったわ、と思い出した。でもあんまり楽しいと思って描いてなかった気がする。自分自身の喜びというものを見失っている可哀想な子供だった。別に船なんて描きたくもなかったのだ。

 

ひとりで散歩をしていると、おセンチだけれども、心が渇いてるんだなあ、と分かるし、その向こうに感情のつるぼのようなものが眠っているのかもしれない、とも感じる。でもどうやってそこにアクセスしていいものか、この年齢になってもよく分からないのだった。無理にアクセスして「これがあなたの本当の過去の感情なのです!」みたいに物語化するのも嘘くさいと思ってしまう。わたしは過去やそのトラウマに興味があるのではなくて、未来と繋がった過去、その時間の流れや、偏在性のようなものに、興味があるのだった。さっきみんなと話した言葉や声音のようなものがまだ残っていて、それが記憶や感情の芽のようなものを刺激しているのかもしれない。年齢や世代といったものを超えていくような、何か。生きていると同時に死んでいるような。

 

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関係ないけど、ある女の人の思い詰めた日記ブログを読んでしまって、そんなふうに思い詰めなくても別の生き方があるのにな、と思うけど、当人にとってはやはりそれが人生の重大事に他ならない、というようなことは我が身を振り返ってみても、ある。人間はどうしても何かに執着してしまう。その執着にこそガッツが生まれることもあるけれど、わたしは今はそうしたことからできるだけ自由になりたい。束縛を解除していった先にあるものとは何か? それが見たい。

 

 

*「そうだ、出ていこう! 浮浪/フロー、もしくはレモンのこと」 

散歩してるうちに、「hb paper」が出来ました!、と橋本倫史くんからメールがあったので、新宿ベルクで落ち合うことにした。このところベルクには頻繁に行っていて、毎回カレーを食べている。他の店でも、家でも、カレーを食べている。カレーを食べている。今もカレーを食べている。何か身体が辛いものを欲しているのでしょうか。ともあれ、最近の忙しさのわりには体調はまずまずよろしいのでOKということにします。

 

いつも思うけれど、こうやって魅力的な仕事をたくさんいただけることは嬉しいし、とても充実している。毎日が刺激に充ちている。もしかしたら(よく言われることですが)羨ましい、と思ってくれる人さえもいるのかもしれない。そこに大きな不満があるわけではないし、むしろ感謝と喜びを感じています。しかし、にもかかわらず、心はどこか渇いているのでした。それは、虚無、と呼べるほどの大げさなものではないけども、でもそれに近いような、どこか渇いたものを感じているのでした。

 

明日がどうなっているかさえ自分には分からない。ある程度の予測は立て、準備はしているけれども、それでもなお予想外のことが飛び込んでくる。仕事も、出会いも。そうした人生をみずから選んできたわけで、それって自業自得かもしれない。でも、選んだともいえるし、選ばざるをえなかった、ともいえる。そこから自分のリズムや倫理を生み出している。それがもしかしたら(願わくば)誰かの役に立つということもあるかもしれない。

 

しかしでは、この心はいったい誰が、何が、救ってくれるのでしょうか。

 

 

引っ越して新天地にいきたいというのも、なんかそうしないといつまでもこの領域に留まっているような気がしてしまうから、かもしれない。あえて理由をつけるなら。でもなんかもはや理屈ではないのだった。直感とかそういうのが今、すごく働いている。もう呼ばれてますから、みたいな。

 

こないだ横浜をまた筋肉痛になるくらい散策して、かなりヤバい地域にも足を踏み入れて、ここに住むにはそれなりの覚悟が必要だろうな、と思った。性格や容姿にまで影響を及ぼすかもしれない。しかし東京に20年以上もいて、そろそろ何か新しい血を自分の中に入れないとな、とも思っている。

 

ある場所を捨てて次の場所に行くことは、この日本ではどちらかというとあまり評価されないことだ、と知ってはいます。でも現状への不満や不足ばかり口にして、ちっとも行動に移せない、というよりは、間違っててもいいから(というか確実に何かしらの誤りは含みながらも)次のフィールドに勇気をもって進んでみたい。それで失敗したらまたやり直そう。世界には無数の土地がある。

 

とか言いながら、意外にまた高円寺に住む可能性とかもゼロではないんですけど。

 

ともかく「hb paper」vol.002には、「そうだ、出ていこう! 浮浪/フロー、もしくはレモンのこと」という文章を描きました。わりとこの日記で書いたこととも繋がっているように思います。よかったら読んでくださいね。

http://hb-books.com/?p=352

  

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