BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

4/14 未来派2012♥≡宣言

 

*日本奪還計画 

いろいろ思うところもありますが、日本をただ出ていくのもシャクなので(そのうち別の国にも住んでみたいけどね、とりあえず10年以内にはアジアのどこかとか)、ひとまず、奪還計画を考えることにします(テロや自爆通り魔以外の非暴力的な方法で)。

 

 

*未来派2012♥≡

最近「未来」についてよく考えているし、実際「未来」という言葉に(主に舞台芸術界隈で)触れる機会が俄然、増えてきた気がする。去年の地震とそれに続く(現在進行形の)放射能洩れの影響も当然あるんだろうけども、 その「種」自体は数年前からセットされていて、ここに来ていよいよ新しい時代が芽吹こうとしている、という、その変革期の只中にあることを様々な人が感じ取っているからに違いない。

 

例えば演劇はここしばらく(特に90年代以降)、いわゆる「日常」を描くものが台頭してきたと見なされているけれども、この傾向は現代口語演劇の隆盛とも無縁ではなかったはずで、要するに「日常をリアルに描く」ことが作家の想像力=武器として受け入れられてきたのだと思う。小さなその世界の遠景には、政治状況や社会構造や歴史的事件といったいわゆる大状況が設定されることもあった。この小さな日常と大きな世界を対置させるやり方は、現在の演劇におけるもっともスタンダードな物語の方法といっても過言ではない。

しかし演劇の想像力はもっと全然別の仕方でもこれから先を駆け抜けていくだろう。その試みは、例えば人間のスペックの限界に挑戦することにもなる。人間は今のところ老いて朽ちていくことを宿命付けられ、ある言語(ex.日本語)を喋り、ある性的嗜好を持った存在とされているが、(現代口語演劇の主たる登場人物である)「現在の人間」だけが想像力の(=芸術の)描ける範囲とはかぎらない。人類が手にした科学技術や情報環境はまさに日進月歩であり、あるいは情勢によっては退化するかもしれないが、いずれにしても価値観や生き方はどんどん変わっていかざるをえないだろう。この変革期を通った先にいったい世の中がどういう形になり、どんな作品が生き残るのだろうか? まあシェイクスピアは数世紀先まで残りそうだ(すでにそうなってきたし)。チェーホフはどうだろう? ……とか考えていくと、やっぱり現在の小劇場演劇のスタンダードである「作・演出」の一体化は少々危険であるような気もしてくる。目の前の観客に見せること、という射程だけでは、歴史の荒波の中を生き抜いていくことは難しい(そうやってある時代と寝て朽ち果てるのも潔いかもしれないが)。では後世の、異なる価値観や言語体系を持つ可能性のある人が、上演したいと思えるような戯曲とは何だろうか?(例えば未来人が上演する『三月の5日間』はちょっと面白そうだ。それはなぜか?)

とはいえ近年の演劇が不毛だったわけでは全然ない。むしろそれらは、ある時代を生きながらも、未来を呼び込む布石でもあったと思う。例えばその中でも、リニアな時間軸に依拠しない方法論が活発に更新されてきたことは、芸術の進化の歴史としても極めて重要なことだった。つまり過去→現在→未来といった単線的な物語の時間ではなく、あるいは「回想」といったやり方でA地点からB地点を振り返るような単純なものでもなくて、もっと記憶や語り口が著しく前後にブレて反復・操作されるようなそれは、現実というものを(その依拠するルールも含めて)書き換えていく力を秘めていた。兎にも角にも、何人かの優れた劇作家・演出家たちによって、演劇はそれまでの重苦しい表現技法を抜け出て、射程距離を伸ばしてきたのだ。人間=世界がその三次元的スペックとして依拠してきた自然主義的リアリズムは今まさに超克されようとしている。別次元がひらきつつある、といっても過言ではない。それによって描ける視野も徐々にひろがってきた。しかも今なお、絶賛進化中♥

 

とりあえず「いま・ここ」だけに拘泥するのはやめたい。つまらないから。もちろん、目の前にいる具体的な人たちへの関心は失いたくないのだが、一方でもう少し(時間的にも空間的にも)長い射程でものごとを見据えていきたい。現在のニッポンだけが全てのフィールドではないのだから。

twitterにも書いたけど、ゆうべ、人間の身体に付着したノミが恐るべき知的生命体として、見たものを感知・記憶しているという夢を見た。たとえ観客が少なかった(あるいは全然いなかった)としても、ノミがそれを観ているとしたら……。興行的には大失敗であっても、そのノミが、後世の人たちにその公演の衝撃を伝えてくれるかもしれない。こうなってくると、進化したノミも、神様も、劇評も、ほとんど存在意義は変わらないように思えてくる……。

 

ともあれ、作品や生存戦略の中で「未来」という言葉が使われたり意識されたりするこの傾向。これをひとまず「未来派2012♥≡」と暫定的に呼んでおきたい(最後の「≡」は「ごうどう」と打ち込めば変換できます。「のこされ劇場≡」から勝手に拝借してみた。あと♥はLOVEね。こうは名乗っていないけど明らかにこの運動傾向の旗手である人たちへのリスペクトを込めて)

芸術運動としての未来派が発祥したのは20世紀初頭だが、世紀のはじめというのはやはり未来志向が高まるものではないだろうか。ただ残念ながら日本の21世紀に関して言えば、90年代の世紀末思想が不全感をともなった(かなりネガティブな形で不発に終わった)こともあったせいか、2000-2010年あたりのいわゆる「ゼロ年代」と呼ばれた時代は、陰湿な閉塞感をともなった内ゲバ傾向とその反転のような軽躁状態の多幸感とに満ちており、わたし個人としてはあまり面白く感じられない時代でもあった。というか全然面白くなかった。「20代非モテ男子の自意識」とかマジで知ったこっちゃないわー。

まあしかしそれも終わった。仲間もできてきた。明らかに次のモードに突入しようとしているし、これは単にごくごく数年間のトレンドに終わる問題ではなく、新時代、がやってこようとしているのだと感じる。その担い手は(精神的に)若い人たちだが、もちろん知恵や技術を持った先人たちの力を借りながら、もうどんどん、若くて、生き生きとしていて、新しい価値観を体現できる人たちが、自分たちが好きなように活躍できる世の中をつくっていったらいいと思う。やってはいけないことは、たぶん、思っているよりは少ない。なかなか思うようにはいかないことの多い世の中だけど、キレて殺戮的凶行に及ぶとかに至るほどまでに鬱々と我が身に不満を溜め込むより、言いたいことややりたいことはその都度やっていこう。具体的にアクションを起こせば何かちょっと変わったりリアクションがあったりする。確固としたビジネスモデルがないと新しいことは始められない、みたいな停滞した時代ではもはやない。ネットを使えばほぼ回線料のみで何かはできるのだ。そうやって何かして少しずつよくしていこう。ひと泡吹かせていこう。アクションとリアクションは循環する。それが活力になる。ふだん偉そうにふんぞり返っていたオトナたちが全然不甲斐ないってことはここ1年でイヤというほど味わったわけだし、いつでも白馬の王子様や足ながおじさんが颯爽と現れてチャンスをくれたりピンチから救ってくれたりするわけではない。欲しいものがあれば与えてもらうのを待つのではなく、自分たちで勝ち取っていくしかないのだ。かといって、「自分ひとりだけでやらなくてはいけないし、絶対勝たないといけない」というゼロ年代的なサバイブとも違う。他人との距離感も変わってきた。ソーシャルメディアとアナログな関係とを通じて、新しい親密さが生まれてきた。まあ、ひと昔前より喧嘩も起こりやすくはなったかもしれないけども、手を結べる可能性もひろがったはずだ。

「未来派2012♥≡」は、〈芸術運動〉であると同時に一種の〈生活運動〉でもある。あるいはそれらを統合して〈生存運動〉と呼んでもいいのだが……。演劇をはじめとする各種芸術のこの傾向をともなった運動は、(かつて)日本の中心だった東京にかぎらず各地で勃興し、生き方そのものを変えていくだろう。

 

これまで歴史というとそれはほぼ「歴史=過去」のことであり、教養として学ばれるものだった。もっと言えばインテリ層の専有物に成り下がっていた嫌いもあるかもしれない。しかしこれからは、歴史は新しい人々がつくるものになる(今までも実はそうありえたはずだが)。つまり「歴史=未来」でもあるのだ。もちろんこれから先も過去から学べるものは大きいし、わたし自身今後いろんな過去の出来事や思想を享受していきたいと思っている。しかしただ書かれた歴史の奴隷になるのではない。みずから書くのだ。分かりやすすぎる喩えなのでちょっと危ういが、歴史というのがもし仮に一冊の書物だとすれば、その空白のページに書き込んでいくのはこれから先の地球(あるいは将来的には月とかも含まれるかも)を生きる人たちだ。そして新たに書き込むからには、前のページだってパラパラとめくりたくなるものだと思う。つまり「未来」を考えることは「過去」を参照することにも繋がる。とにかくまずは「現在」のくびきから解き放たれること。そうやって徐々に見える世界をひろげていったらいいのではないか。

まあせいぜい次の世代に対して恥ずかしくないことをやっていきたい。ちなみにわたしは主に「演劇」を念頭にこれを書いたけれども、もちろん他の芸術ジャンルに関しても適用可能であるはずだ。

 

「未来派2012♥≡」は、まず視野と射程距離を今いる場所から遙か遠く先まで伸ばすことで、三次元的なリアリズムを超克し、さらには芸術技法のみならず生き方そのものまで考えて変えていくところが肝だが、他にも差しあたり幾つかの特徴が見出される。「多様性の擁護」「贈与の精神」「定住者とノマドの共存関係」「ジャンルオーバー(境界溶融)」「オープンな運動」といったことがそれである。

まずもって何かひとつの方法論のみを称揚・死守しようとしているのではない。おそらく未来においては多様性が重要なポイントになってくる(今以上に異文化との接触も増えるだろうし)。単一のDNAでは未来はない。痩せ細るだけだ。様々な方法やパターンや思想や価値観が混在している状態のほうが、種全体としては繁栄する。だからそこではひとつの「正義」が押しつけられることはないだろう。とはいえ冷蔵庫の中の腐ったリンゴのように、他のものを腐らせるような悪種は間引きする必要があるかもしれない(一歩間違えば危険思想だけど)。でも、いい加減なやつはちょっとくらいいたほうが愛嬌があっていい。とにかく一方的な「正義」による判断が下されることのないように、多種多様なメディアが各地に存在することを、「未来派2012♥≡」は歓迎する。

そして、自分の領地や所有物を増やそうとばかり考えるのではなく、むしろ何かを差し出す(プレゼントする)というささやかな行為が、未来の経済や多様性を循環させていくだろう。これも夢物語ではなくて実際にそうなりつつある傾向だ。

ある土地に根を下ろして定住する人だけではなくて、ノマド的に移動する人も重要な役割を果たす。つまり具体的に土地の力を耕す人も必要だし、一方で、各地のそうした諸活動を観察し、何かしらのメディアを通して他の土地にその情報を伝播していくような人も必要だ。しかしまずはつくること。観ること。喋ること。書くこと。創作と感受と伝達、創作と感受と伝達の繰り返し……。その循環の中で何か刺激を受けた人がいたなら、たぶんまたオギャーと何か生まれるんだろう。

当然、そうしたサイクルにとっては、あるジャンルだけに拘泥することはあまり意味がないし、むしろもったいないことでもある。例えばある土地に深くコミットしている人が、その土地で発生する演劇にはめちゃめちゃ興味があるのにそこで上映される映画や美術や音楽にはまったく興味がない、といったことはむしろ難しいことだろう(東京ではありうるが)。そうした意味においても、あるいは表現技法上の問題においても、もはや特定のジャンルだけに閉じこもるのは不毛であり今後は困難にもなってくる。必ず境界は溶けるか越えるかされる。

そしてこの「未来派2012♥≡」はあくまで運動であり、固定的なメンバーシップを持った会員制クラブや秘密結社ではない。誰でも「あ、もしかしたら自分もそうかも」と思った瞬間にもうすでにその片棒を担いでしまっている、といった類の極めてオープンな運動なのだ。なんとなく心の片隅に似たようなことを思っていればもう仲間なのだ。それはいつでも始められるし、いつでもやめられるのである。

 

 

 

*高円寺/横浜 

さて今、高円寺に残留するか、横浜方面に住むか、考えていて。ほんとはまったく別の土地(外国も含めて)に惹かれてもいるけども、首都圏を離れるためにはまだ数年はかかりそう(まあ、いつ離れても自由なのですが)。今住んでいる町もすごく好きなんだけど、環境を変えたいという気持ちもあり。ここにいると、いろんな人にお誘いいただいて飲んだくれてしまう。まあ横浜行っても飲むかもだけど、頻度は確実に下がるだろう。そのぶん本を読んだり、映画を観たり、散歩したりして過ごしたい。美術館にも行きたい。演劇を観る数は今より少し減ってしまうかもしれないけど(どうかな?)、それでちょうどいいくらいな気がする。カプカプにも遊びに行きたいのよね。きっと、人や町や、芸術との距離感が変わるだろうと思う。そして未来をイメージしたい。

 

 

 

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