BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

1/26 いろいろ観に行けないことについて

 

*いろいろ観に行けないことについて

ひさしぶりに日本語で少し言い訳めいたことを書きます。例の敏腕制作者から電話があって、某公演の予約をやっとした。でもそれはもともと観に行こうと思っていたものだから、全然お尻をつっついてもらって良かったんだけれども、日々の生活や締め切りに追われて後手を踏んでいたのだった。予約した。やった! 予約したぞ!

今この瞬間にもアレもコレも観に行きたいと考えてはいる。だけど残念ながらそのうちわずか数パーセントしか実際行くことは叶わないだろう。そう思うと気が滅入るし、精神的にも良くない。

 

しかし、いったいなぜ、アレもコレも観に行けないことを気に病んでしまうのか?

 

もちろん、本当に観たいと思うのに残念だ、てこともある。と同時に、「こないだのアレ観に行けなくてごめんなさい〜」みたいな精神的ビハインドがあまりにも重なった時に、それらが心の負債として蓄積してしまうことを怖れているのかもしれない。まったくつまらない、ひ弱なメンタリティではある。しかし看過できない職業病でもあるだろう。決してわたしだけの悩みではないはず。

だったら今後このように考えてみるのはどうだろか?「公演を観に行くには多大な労力が必要であり、その1回1回はかなり奇跡的な出来事なのだ」と。さらに言うならば「公演を観るとゆうことは、とても嬉しいことなのだ」と。ちょっと原点に立ち戻りたい。しかしこれは後退ではない。

 

やりたいこと、やらなければならない仕事が山積している中で、放っておけば、わたしは毎日劇場に出かけてしまうだろう(お金の続くかぎり)。ここ数年は、それがわたし自身のためにも、もっと何か大きなもののためにも、必要なことだと思ってきた。

だけど実際問題として、公演を観るのには数時間かかる。いったん外出するとなかなか帰ってくることはできない。帰宅しても気持ちはすぐには切り替わらない。劇場で出会った人とお酒を飲んでしまうことも多々あるだろう(これは鉄の意志で回避できるかもしれない)。とにかく結果として仕事に打ち込むことができない。それは良くない。やらなければならないミッションがある。たくさん公演を観て、それをツイッターで呟いたりすることが誰かのためになることもあるかもしれないけども、もうすでにそのことに対する限界も感じてるとゆうか、もっとわたし自身や誰かのためになるような回路やミッションが存在するのだと分かっているのだった。それができてないとゆう負債感が溜まると、人生も楽しくなくなってしまう。嬉しさを感じることもできなくなってしまう。

 

要するに、ある公演を観て衝撃を受ける。そのことにもう少し踏みとどまりたい。できればしばらくじっくり考えて、劇評や、せめてメモのようなものでも残したい。数を打つよりも、1回1回の体験を何度も消化してストックさせていくことのほうが今は大事に思える。わたし自身のためにも、もっと何か大きなもののためにも。

だからこそ、劇評は大事だと思う。誰かがある公演を観て、そのことで受けた衝撃を形に残していくこと。劇評アーカイブとはつまり、誰か複数の人々の手による、その1回1回の手応えの痕跡ではないだろうか。たとえ自分が観に行けなくても、誰かがそれを観たのだと証明してくれるような良い原稿を書き残してくれれば、気持ちはかなり救われる。別にそれは既存の「劇評」の枠にはまる必要はない。ただ、その作り手がそこで何をしようとしていて、それをどう受け取ったのか、といった痕跡のようなものがあればと思うのだ。きっとわたしは、誰かが魂や丹精を込めて作ったものたちが、誰にも書き残されることなくただ茫漠たる情報の海に呑まれていくことが残念無念でならないのだ……。

 

人は多くのものを愛することはできないのかもしれないと最近考えている。がんばってみてはいるけども限界はある。無理です。そんなに行けません。きっと必要なのは、1人がたくさんのものを愛することではなくて、たくさんの人たちがたくさんのものたちを愛することではないか? なんかそうゆうmulti-archiveのイメージ。

 

自分自身への言い訳とゆうか、気持ちの整理のために書いてみました。