BricolaQ Blog (diary)

BricolaQ(http://bricolaq.com/)の日記 by 藤原ちから

デュッセルドルフ滞在記2-2


2日目、金曜日。早朝に目覚める。tanzmesse(ダンスの見本市)に山口真樹子さんがいるらしいので、ライン川沿いをてくてく歩いて訊ねる。2014年に彼女にマンハイムに呼んでもらわなかったら、今自分がここにいることはたぶんなかった。

 

tanzmesseには世界各地から人が集まり、ブースがたくさん出ている。日本からはTPAMと国際交流基金が出展。ヒロミン、タン・フクエン、チョイ・カファイらとも少しだけ話す。旅人・カファイから進行中のプロジェクトの話を聞いて、いい刺激をもらった。どんな刺激を受けたかについては今ここには書かない。

 

アルトシュタットまで歩いて、定期券を購入。52.95ユーロ。やったね。これでトラムもバスも乗り放題に。カフェTENTENで少し作業してから、醸造シューマッハまで歩いていく。すると聞き覚えのある声に遭遇。火曜日のコンサートにお誘いいただく。去年の滞在から、何かがゆるやかに繋がっている。

 

 

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デュッセルドルフ滞在記2-1

 

初日、木曜日。例によって、2度目の都市を訪れる時はナーバスだ。特に今回はいくつかの要因が重なっている。日本から持ってきた仕事のこととか。まだ全然デュッセルドルフ版のテクストを書けてないとか。そもそもこの遠く離れた都市で何ができるのか、とか。この1年でヨーロッパの情勢も大きく変わった。どちらかというとその変化は芳しいものではなく、ENGEKI QUESTにとっては難問でもある。挑戦し甲斐がある、みたいな簡単な言葉で済ますこともできないような。

 

けれど飛行機から、緑あふれるドイツの大地を見て、気持ちが昂ぶった。アジアのそれとは異なるヨーロッパの森であり、田園だった。この土地で生きてきた人たちのこと、その歴史、そして今も人々を生きさせている、この大地の力強さを感じる。

 

 

Sバーンに乗ると、見慣れた風景。去年、この都市を歩きまわった記憶がまざまざと蘇ってきた。懐かしい……。ヨーロッパを訪れてこんなファミリアな気持ちが湧いたのは初めてのことだ。中央駅でトラムに乗り換えて、あきこさんの家へ。お久しぶりのような、そうでもないような不思議な気分。おかえり、と言ってもらえるのが嬉しい。

 

疲労困憊ではあったけれど、アルトビールが呑みたい。miuさんに無理を言って、少し散歩してから近くのバーへ。この1年のお互いの変化について話す。ある男の子との出会いについてmiuさんは語ってくれた。もしや、と思って苗字を訊いてみたら、やはりそれは、足の長い男の子のことだった。

 

 

 

 

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中国・近況報告その5

「私の働いているスペースに遊びに来ればいい」とダミンが誘ってくれたのだが、その場所は、なんと訪問予定に入っていたPSA(Power Station of Art)だった。午前中は、マッサージ店という名の売春街か、ナイトマーケット跡地、あるいは朝市に向かうつもりだったけど、せっかくなのでダミンと話したいなと思い、ひと足先に地下鉄でPSAに向かうことに。最寄り駅に着いてみると、遠くからPSAの異様な煙突が見える。元は発電所だった建物が、今は美術館になっているのだ。社食をご馳走になり、中国のこと、日本のこと、未来のことなどをダミンと話す。午後には他のメンバーも合流。PSAが去年から始めた演劇ブランド「聚裂 ReActor」というプログラムについて聞く。そこにラインナップされた作品は極めて実験的で興味深いもので、特に組合嬲というカンパニーの観客への挑発ぶりは凄い。多田淳之介のラディカルさを思わせる。

 
 
夜のレクチャー&会食には、その組合嬲創設者であり演出家であるチャン・シェンが現れた。老齢に差し掛かった、穏やかな顔つきのおじさまだが、「伝統的な演劇の貞操を破りたい」と言う彼の思想や活動はとても刺激的で、誰かに心酔するということはまずないわたしだが、惚れそうになった。通訳・速記泣かせとして有名らしく、その怒濤の語り口をシンシンが頑張って通訳してくれた。検閲を潜り抜けるための彼の知恵、そして批評精神には目を瞠るものがある。「わたしはあなたからもっとたくさんのことを学びたい」と言うと、チャン・シェンは、「学ぶのではなく、友だちになるのがいい」と言った。
 
 
 
PSAで観た展示、Boonsri Tangtrongsinの『Superbarbara Saving the World』に胸を打たれた。ダッチワイフのスーパーバーバラが、この世界のために我が身を犠牲にして様々な献身的行為をする。何度も、何度も、その献身は繰り返される。それはまったくの徒労でしかない。しかしバーバラはへこたれることなく、何度も、何度でも、みずからの股間にある女性器から産まれ直すのだった。
 
 
 
 
上海には遠くないうちにまた来ることになりそうだ。あとはこちらのスケジュール、意欲、交渉次第。北京に比べて商業主義寄りだと聞いていたけれど、百聞は一見に如かず。実際にはかなり実験精神に溢れた土壌があり、アメーバ的な活動が根を広げつつあるようだ。そのバブル経済のゆくすえは不透明ではあるけれど、ひとまず今、ここに夢があるのは間違いない。上海ドリーム。横浜、マニラに続いての活動拠点になるだろうか。
 
演劇最強論in中国のパートナーである徳永京子さんに感謝。そして何から何までアテンドしてくださった日本文化中心(国際交流基金)の後井隆伸さんと呉珍珍さんには、足を向けて寝られない。
 
 
 
飛行機で、隣のおばちゃん姉妹が豆をくれた。神戸に移り住んで28年になるという。それぞれ日本人と結婚したが、姉は中国籍で、妹は日本籍。「中国と日本には喧嘩してほしくない。政府だけが喧嘩をしている。私たちは喧嘩していないのに」
 
 
1時間機内で待って、ようやく飛び立った機内から揚子江が見えた。それは、もはや川とかいうレベルではない何かであり、それ自体が巨視的な意志を持っているかのようだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

中国・近況報告その4

上海、ヤバイ! 意識を高揚させられる何かがこの都市にはある。今日の上海話劇中心でのレクチャーはライブ中継もしてもらったのだが、延べ60000人超、最大瞬間風速は4000ビューを超えたらしい。さすが中国……。詰めかけてくれて立ち見まで出た5、60人の観客たちの反応も身近に感じた。

 
遡って昼間は美術館MCAMへ。キュレーターのフーさん、ワンさん、カさんらと話したのだが、当初予定を大幅に超えて3時間半くらい話し込んでしまった。ホワイトキューブでもありブラックボックスでもあることを意識したという、元々は工場だった空間も素敵で、きっとここで腕をふるってみたい日本の演出家はいるだろうなと思ったし、わたしもなんだかワクワクした。とにかく話が面白かった。もしかすると演劇よりも現代美術系のほうが、日中の共通言語があるのかもしれない。コミュニティアートについてもだいぶ話した。上海でもっと仕事してみたい。それは非現実的な選択肢ではないと感じる。
 
夜は、上海話劇中心の佳代さん(中国人です)にご馳走になった。とても美味しかった。去年、地点のワークショップの通訳だったエミーも来てくれた。エミーがいる時のシンシンは普通の女の子に戻ったような顔をする。
 
だんだん、少しずつ、人々の素顔の一面が見えてきている。2回目、というのはやはり大きい。そう、ダミンもレクチャーに来てくれた。彼女に初めて会ったのはドイツのマンハイムで、去年再会し、バイクの後ろに乗せてもらい夜の北京を疾走したのだった。気持ちよかったなあ。ポンハオ劇場で働いていたホイホイさん。そして去年、Kさんが「我爱你」と言って口説いていた女性も姿を現した。レクチャーの後で彼女はしばらく入口のあたりに佇んでいたのだが、それはたぶんわたしを待ってくれていたのである。彼女は、私のことを覚えていますか?、と言う。それに対して、もちろんですよ、元気でしたか?、とわたしは応じるはずだった。しかし後片付けをしたり人につかまったりしているうちに彼女は黙って姿を消してしまった。彼女は一抹の寂しさと諦めをもってエレベーターを降り、夜の上海に消えていったのである。結局彼女が何者なのかよくわからないままなのだが、とにかく、彼女たちの時間がちゃんとこの世界で流れているのだという当たり前の事実をあらためて知ることができて嬉しい。ひとりの人間が認識できる領域はごくわずかにすぎない。体験できることも。分身の術が使えない以上、すべてを把握することはできない。そのことが愛おしい。人生は断念の連続である。だがこうとも言える。人生は運命の連続である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

中国・近況報告その3

タンユエン・リー(藤原力)として活動して5日目、ついに上海に辿り着いた。しかしネットの調子が最悪で仕事にならない。この日記もいつアップできるかわからない。意気消沈。とはいえ、逆境を楽しむことにかけてはわたしもそれなりに定評がある。

 
 
今日は早起きして、北京から杭州に飛行機で飛んだ。杭州は湖や湿地帯が広がっていて、「天には楽園があり、地には杭州がある」と言われるくらい、風光明媚な場所として栄えてきたようだ。この湿地帯に劇場がある。去年できたばかりの新しい劇場。ディレクターのイリンさん、そして若いスタッフのパパンとマニンが迎えてくれて、高級ホテル(G20では安倍首相も宿泊するかもしれない)でランチをご馳走になる。杭州料理を食べるのはおそらく初めてだが、とても美味しい。
 
実は杭州には少し寄るだけで、早々に上海に移動する予定だったが、イリンさんたちとの話が盛り上がりすぎてしまい(というか、彼女らの我々に対する好奇心は予想以上に大きく)その場で予定外の映像インタビューを受けることになった。それも、ひとことメッセージを言うだけかと思いきや、かなり根掘り葉掘り日本の現代演劇について訊かれたのである。
 
 
西湖の湖畔にあるレストランで晩御飯。ここは白蛇と青蛇の伝説で有名な巨大な湖らしく、シンシンはその地を訪れることができて興奮していると言う。こちらでは西遊記と並んでとても有名な伝説で、実写版のテレビドラマにもなったらしい。
 
 
高速鉄道で1時間ほど。いよいよ上海へ。駅からはタクシーの長蛇の列。ひとり、年老いた物乞いがその列にぶっこむような形で寝ていた。なるほどここだと、ただ半裸で寝ているだけでも結構な金額が集まりそうだ(しかも彼がいる場所はほどよくクーラーのあたるベストスポットだった)。
 
ホテルのネットの調子は北京よりひどい。と冒頭に書いた。仕事にならないので急速にやる気が失われ、そして結局今日もまた予定より働いてしまったので、冷蔵庫に置いてあったバドワイザーを呑んだら、ばたんきゅー。あっという間に眠りについた。
 
 
 
 

中国・近況報告その2

今回の滞在は自由時間がほとんどない。タクシーを使い、言葉もほぼ全部通訳してもらって……とシンシンたちにアテンドされるがままになっている。マニラの友人たちがこんな受動的なわたしを見たら驚くだろう。しかし今回は批評家モードに集中せざるをえない。今は、朝から晩まで人と会って話している。

 
 
北京最後の日となった今日4日目は、まず朝、ポンハオ劇場で徐健さんにヒアリング。体制内の媒体の記者と事前に聞いていたから、どんなコワモテの人かと思いきや、とても柔軟な人だった。我々の中国演劇への理解をかなり深めてくれた。彼によると、中国の演劇界ではこんな言葉が流行っているという。
 
「命を愛するならば、劇場から遠ざかれ」
 
 
午後は孟京輝の演劇(女優のひとり芝居、2時間)を観る。前に観た作品よりも様々なことを考えた。
 
 
その後、第九劇場で陶慶梅さんにヒアリング。中国のここ30年の小劇場について本を著した研究者で、日本のF/Tでレクチャーをしたこともある。2000年から北劇場という小劇場の立ち上げに関わり、そこから遡って小劇場について調べ始めたのだという。1982年の林兆花演出の『絶対信号』が彼女の研究のスタート地点となる。そのあと90年代後半にかけて孟京輝たちが台頭し、現在まで力を持っている。しかしそのあとの世代については、内面のモチベーションが足りないのではないか、との話だった。
 
 
……他にも書き記したいことは山ほどあるのだが、もう疲労困憊で明日6時起きなので今夜はこのへんにする。とにかく、今回の滞在でようやく、中国現代演劇の何たるかにアクセスできつつあるのを感じる。サポートしてくれるみなさんのおかげやで。
 
 
しかしな、若干ビールは呑みすぎているな(薄いやつを)。
 
 
ホテルの前にある酒屋の、朝から晩まで半裸でたまにハイテンションになるおっちゃんとも、今夜でお別れだ。
 
 
 

中国・近況報告

 

北京滞在も3日目が終わろうとしている。徳永京子さんと共に、日本の現代演劇の状況を伝え、また同時に中国の演劇状況について知るための仕事で来ている。遣唐使や遣隋使も、こういう感覚だったのかもしれない。滞在しているホテルはネット環境があまりよろしくなく、そもそも日本で流通しているSNSも(抜け道を使わないかぎり)見られないので、現在の日本の状況からは著しく乖離している。2年目の北京訪問だからこその困難も感じている。ただ、初日にヒアリングをした中間劇場の王林さんの毒舌話が刺激的だったこともあり、調子は悪くない。

 
2日目は、今回の北京側の聞き手であるスン・シャオシンとチェン・ランとたっぷり話せた。彼らは何度か日本にも来ており、日本の演劇の状況についてもかなり知識を持っている。
 
今日、3日目は、徳永さんとレクチャーを行い、彼らに聞き手になってもらった。彼らを指名してよかったと思う。受付開始10分で速攻で予約が埋まったという聴衆たちにどこまで届いたかは不明だが、少なくとも中国の気鋭の批評家とジャーナリストにかなり詳細な情報を手渡すことはできた。今後もこうした対話は続いていくだろう。今日はその大きな一歩になった。
 
会食を経て、最後はホテルの庭で後井さんたちと少し呑む。林さんから聞いた「理論自覚」という概念は興味深い。みずからの美術史的な位置付けを自覚し、その認識によってみずからの活動をアピールしてマーケットに売り込むことをそう呼ぶのだという。10年ほど前から、中国の現代美術が海外に売れるモードになっており、「理論自覚」の若いアーティストや学生も増えているらしい。もちろん、口が達者でも作品が面白いとはかぎらないわけである。
 
前回滞在に続き、アテンドをしてくれているシンシンは、この仕事をもって退職し、フリーランスに転向するとのこと。なんとも寂しい。でもきっとまたどこかで一緒に仕事ができると思う。
 
 
これを書いているあいだに寝落ちしてしまった。相変わらず、夜の町を徘徊する夢を見るのだが、このいつもの町は少しずつ形を変え、また巨大化もしており、各地の文化習俗が入り混じっていて、どこの国であるかはよくわからない。もしかするともう国家や国境というもののない世界なのかもしれない。朝は、砂浜でテロリストに襲撃される夢を見て、目が覚めた。わたしは死んだ。だがわたしは生きていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

緊急ミーティング「政治、いや芸術の話をしよう」関東編を終えて

 

ご来場くださったみなさま、行きたいと表明してくださったみなさま、ありがとうございました。

 

正直、これまで人前で話した中で、最もヘビーな体験になりました。それ以前のベスト・オブ・キツイは、たぶん東京デスロック『シンポジウム』の最初の何日目かだったんですけど。どちらも会場がSTスポットってのは偶然ではない気がします。

 

あの空間では、嘘をつけない。自分の正体が顕わになる。ヴァルネラビリティ(傷つきやすさ)が最大化される。そう感じるのはわたしだけでしょうか?

 

 

会場に満ちているエネルギーには異様なものがありました。途中で「これは墜落するぞ」と予感しました。事前に「お客さんにサービスしすぎない(なぜならお客さんではないから)」「ジリジリする時間をわかりやすさで埋めない」と決めていたことに加えて、あの場に入ってから身体が「要約しない」「人の話を遮らない」状態に入ってしまっていたので、これはもう潔く墜ちるほかない。とはいえお声がけした人たちをいたずらに怪我させてはいけない。パイロットとしての職務は全うしなければならない。そうして不時着できる場所を探しているうちに、雲海に突っ込んでいったような感覚です。そのまま深夜の打ち上げまで雲の海は続きましたが、最終的には、ラピュタのようなものを発見しました。たぶん。

 

それについて今は語りませんが、自分の今後の生き方には著しく影響しそうです。

 

 

あらためて、集まった人、発言した人、何か言おうとして声帯を震わしかけた人……ありがとうございました。詰めかけてくれたひとりひとりが何かを考えていた、という事実を噛みしめます。

 

ゲストスピーカーの捩子ぴじんさん、山田由梨さん、危口統之さん、大道寺梨乃さん、共同呼びかけ人の桜井圭介さん、そして場を提供してくださった佐藤泰紀さんとSTスポットのみなさん。本当に感謝しています。

 

さらには、メッセージを寄せてくださった松井周さん、山本卓卓さん、中野成樹さん。遠方から応援の言葉をくださった岡田利規さん。ありがとうございました。

 

 

話した内容は、文字にして残したいと考えています。

 

 

明け方頃になって、「ちからさん、もう踊るしかないッスよ!」と佐々瞬氏に言われ、ハッとしました。確かに、フィリピンでもドイツでも踊るのに、なんで日本では踊らないんでしょうかね。踊りたい。

 

 

22日の関西編につづきます。

http://gekken.net/atelier/pg538.html

 

 

 

 

マニラ滞在記4-8

 

マニラ滞在30日目、火曜日。最後の日である。Natsukiと一緒にタクシーで空港に向かう。JKたちが見送ってくれる。名残惜しい。わたしはすでに彼らを家族のように感じている。いつわたしはここに戻ってくるのだろうか? 途中で、電柱でポールダンスをしているおじさんを見た。わたしはマニラを愛することができる。

 

タクシーの中で、「これからどう生きていくか?」についてNatsukiと話す。わたしはどうしよう? とりあえず、まずはダバオに行ってみたい。ドゥテルテ大統領の都市へ。ミンダナオ島へ。わたしはまだフィリピンのごく一部しか知らない。それはアジアのごく一部。世界のごく一部。

 


飛行機で隣の席に座った男は、イスラム系に見えた。何ヶ月か前に、ある女性が「隣の男がISにメールしていた」と証言して飛行機を止めた事件を思い出した。あの事件は結局、白だったのか、黒だったのか? わたしは確かに隣の男に恐怖していた。もしも彼がテロリストだったとしたら……? 

 

わたしはたぶん、それなりにリベラルな思想の持ち主である。それでも、こうして、他者を恐怖する。イスラムという他者を。偏見と憎悪が世界に蔓延している。この後でわたしが行くヨーロッパでは、それはもう避けては通れない問題になっている。今日もどこかでテロが起きている。人々が殺されている。わたしはいつ死ぬのだろうか。殺されないで、天寿をまっとうすることはできるのだろうか。最善を尽くそう。だが、わからない。わからないことだらけだ。ひどい時代になった。ひどい世界になった。今はもう第三次世界大戦と呼ぶこともできるだろう。「銃後」のない戦争。国と国との闘いではなく、いつでもどこでもテロが起きる戦争。そんな戦争の中を、飛行機は飛んでいく。とりあえずの休息の地である日本に向かって。日本が安全だから一番だと多くの日本人は言う。しかし日本もいつまでも安全地帯ではいられないだろう。隣の男はわたしに、「ペンを貸してくれませんか?」と頼んできた。彼は、彼の職業や国籍について、紙に書いていた。わたしのペンを使って。わたしはその文字を読み取ることができなかった。

 

その時、初めて、わたしは彼の顔を見た。

 

 

 

 

 

 

▼同じ日の石神夏希さんの日記

http://natsukiishigami.com/2016/06/p14-2/

 

 

 

 

マニラ滞在記4-7

 

マニラ滞在29日目、月曜日。ゆっくり起きて、Matalino通りにマッサージに行った。かなり強めにやられた(腰に立たれた)。この結果、わたしはしばらくダメージを受けることになったが、それは後日の話。

 

郵便局から、城崎の三人姉妹にエアメールを送る。18ペソくらい。郵便局には机のようなものがなく、炎天下で座って手紙を書いた。背後には常に気をつける必要があるので、走り書きで。

 

昼寝をした後、わたしはインタビューを受けることになっていた。予定時刻の1時間を過ぎて、Kei君(通訳)とJK(通訳)がやってきた。Brandon(カメラマン)が到着したのはさらに1時間後だった。まあもはやこのフィリピン時間にわたしも慣れている。むしろこの時間がもうすぐ終わることが寂しい。インタビューの中で、わたしはMarikinaでのENGEKI QUESTを振り返った。なぜわたしがここに来たのかも。

 

ジプニー先生のRalphも、ENGEKI QUESTにおいて何が起きたのか、コラボレーターとして証言してくれた。

 


夜はJKの家でパーティ。「どうしてRikiがここにいないの?」とClaudiaが嘆く。みんなで映画(TVドラマシリーズのファンタジー)を観て、ダラダラ過ごす。JKやBrandonが、さらに食べに行こう!と誘ってくれたが、疲れがあまりにひどいので、泣く泣く断って眠った。最後の夜だけど。無事に帰るまでは、気は抜けない。

 

 

 

▼同じ日の石神夏希さんの日記

http://natsukiishigami.com/2016/06/p13-2/

 

 

 

 

マニラ滞在記4-6

 

マニラ滞在28日目、日曜日。わたしは二日酔いだが、なんとか生きている。朝は、先日のカンファレンスの続き。JKハウスで、DavidとArcoが彼ら自身の活動についてそれぞれ語った。

 

Arcoのトークはまるでパフォーマンスだった。彼はしばらく沈黙していた。彼はEisaのドラマトゥルクだが、こうして異国に入っていく時、彼はあたかもダンサーのようになる。あるいはエイリアンのように。

 


劇場に向かう途中で、わたしは一匹の野犬に襲われた。この野犬は凄まじい勢いで駆け寄ってきたので、わたしは後ずさりしながら身構えて、闘いを覚悟した。しかし手の届く距離まで来た時、犬は急に吠えて逃げていった。何か見えない力に守られたような気がする。もしかしたら幽霊がわたしに取り憑いているのかもしれない。「私たちは見た、あなたがレストランで見知らぬ女性と一緒にいるのを」「あなたはタクシーの中で誰かと話していた」……そうした証言を考えると、「幽霊」という説明が腑に落ちる。Marikinaの教会に行った時に、わたしは彼女を連れてきてしまったのだろうか? その教会には、幽霊が出るという噂があった。

 


Tassos Stevensの『We’re Going to Tell You A Secret』。クイズ形式。彼がMaginhawa通りなどでリサーチしたことがクイズになる。パフォーマーやスタッフたちを巻き込んでいる。さらには、バランガイ・オフィサーを劇場に呼んだ。この短い滞在時間で、いつ彼はこんな準備をしたんだろう? 驚嘆に値する。そして、フィリピン人たちが、クイズに本気になることにも驚いた。

 

ただし、高速の英語を理解するのは難しかった。文脈を理解しているかどうかは重要な要素である。毎回、文脈(今何を話しているか)を最初から探さなければならないのはつらい。おそらくこの現象はわたしだけではなかったはず。長期の海外留学でもしていないかぎり、ほとんどの日本人が、文脈なしで英語を理解するのはかなり難しい。そのことは知っておいてほしい。

 

途中で、見たことのないような豪雨が降ってきた。音があまりに凄くてTassosの声をかき消したので、パフォーマンスはいったん中断した。Papet Museoの窓から、わたしたちは雨のマニラを眺めた。わたしは、わたしたちが今ここに生きていることを喜んだ。

 


わたしは疲労困憊だった。何も食べていなかったし、高速の英語はわたしの脳みそをすり減らした。それでわたしはAte Fe’sにご飯を食べに行った。よりによって、この日はなぜか、料理が出てくるのが遅かった。それで遅刻してしまった。Ea TorradoとNikki Kennedyの『How Can I Miss You』。わたしは終盤のシーンだけを観た。ごめんなさい。が、この2人のコラボレーションが1年越しで実現したことをわたしは嬉しく思う。

 


フィナーレは、JKのファシリテートによって、本をつくった。インディペンデント・アーティストが生きていくために必要なものをみんなで書き出し、それを巨大な「本」として綴じたのである。

 

それから、その場にいた全員で、ひとつひとつのパフォーマンスを振り返っていった。このファシリテートはPiperが務めた。彼女は去年KARNABALに来ていたMaxの弟子筋にあたるらしい。オーストラリア在住で、出自はベトナム。とても快活な女性だが、冷静にものごとを見ているようでもある。

 

最後は、JKがみんなに風呂敷を配った。それをバッグの形に結うと、彼はこう言った。「さあみなさん、家に帰りましょう」

 


フライングハウスは夜遅くまで開いていた。

 

 

 

▼同じ日の石神夏希さんの日記

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マニラ滞在記4-5

 

マニラ滞在27日目、土曜日。Mapua Tekno Teatroの『Hanap Buhay』。私が少し遅れて到着した時には、すでに始まっていた。ワークショップのようだ。チープな素材を使って、塔のようなものをつくっている。JKはひとりで何か別のものをつくっている。なぜならJKは「インディペンデント・アーティスト」だから……。もうひとり、不審な人物がいた。彼はチームリーダーから怒られていた。そして彼は虚ろな目をして、別のチームに参加した。ところがそこでも彼はうまく場に馴染めなかったようだ。

 

そのうち、彼が高台の上に立った。彼は自殺しようとしている! 劇がここから始まる。仕事や人間関係に絶望した彼の告白。それを止めようとする人々。

 


Storyboard Junkiesの『Cafe Bayani』。フィリピンの死んだ英雄たちが天国(地獄?)で集まって会話をしている(タガログ語で)。おそらくフィリピーノたちにとって、この会話は現在と繋がっているのだろう。もし日本版を上演するなら誰がラインナップされるだろうか。終演後は、コーヒー付きのアフタートーク。

 


The Scenius Pro.の『Hear, here!』2回目。JamesとBunnyが「次はもっと言葉を使わないバージョンにする!」と言っていたので。今日は、耳の聞こえない人たちがたくさん参加していた。

 

歌がフロアに流れる。ダンサーが踊っている。途中で、音が消える。ダンサーは踊り続けている。字幕だけが無音で流れる。観客は、その聞こえない歌を聞く。

 

終演後に、くロひげのミサミサがなぜか号泣していた。

 


Maginhawa通りのマッサージ店へ。それから、JKたちと一緒にタクシーで遠くのTomato Kickへ。「Strange Pilglims」。去年もわたしはここに来て、韓国人チーム(Creative VaQi)と踊った。あれ以来、「Chikaraは呑むと踊る」というイメージが定着しているらしい。そしてこの夜はそのイメージをさらに増幅させることになった……。

 

Claudiaのショーも洗練されてパワーアップしていた。David Finiganのパフォーマンスの変化にわたしは驚かされた。まったくの別物だった。観客は部外者ではなかった。わたしも舞台上に引っ張り出された。わたしはすでにレッドホースを何本か呑んでいた。変な緊張を感じたが、楽しかった。

 

実は何日か前のDavidのパフォーマンスについて、JKは辛辣な評価をしていた。(わたしは感動したが、それはわたしがDavidと同じように外国人であるからかもしれない)。ナイーブに自己言及し過ぎる、というのがJKの評価の理由だった。しかし今回のDavidのパフォーマンスは、その批判を見事に乗り越えたのである。

 


くロひげの3人も即席でパフォーマンスをした。それは非常に彼女たちらしさを感じさせるものだった。きっとこうした経験がいつかどこかに繋がっていくだろう。そして日本も変わるだろう。

 

  


Alonの運転する車で帰った。わたしはかなり酔った状態だった。「覚えてる?」次の日、Alonはわたしにそう訊いた。わたしは答えられなかった。わたしは空席に向かって話しかけていたらしい。まるで誰かがそこにいるかのように。

 

 

 

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マニラ滞在記4-4


マニラ滞在26日目、金曜日。わたしが劇場(Papet Museo)の窓際でメールしていた時、サラがやってきた。「私はこの窓から見える景色が好き」と彼女は言う。わたしはメールのためにナーバスになっていたが、確かに、この窓からの眺めは美しい。


The Scenius Pro.の『Hear, Here!』。手話やジェスチャーでコミュニケーションするワークショップ形式のパフォーマンス。コミュニケーションの前提が崩れることで、日常とは異なる身体感覚が引き出される。JamesやBunnyのファシリテートは参加者の緊張をほぐし、あの場を多幸感で溢れさせた。彼らのパフォーマンスはナーバスになっていたわたしの心を温めた。



Christopher Aronson、Guelan Luarca、Ness Roque-Lumbresの『Mausetrap: Anti-Hamlet』。ハムレットをモチーフにした作品。タガログ語のパートが多く、さらにスペイン語もあり、わたしは内容を完全には理解できなかった。しかしわたしは複数の問題意識の存在をこのパフォーマンスの中に感じた。例えば、形骸化した劇場への批判。英語という言語の問題。そして彼ら自身の交換可能性。

タガログ語をもっと理解したい。

 CNNフィリピンの記事
 http://cnnphilippines.com/life/entertainment/2016/06/14/karnabal-festival.html


ISSA LOPEZのソロ・パフォーマンス『!』。インスタレーションと映像そしてパフォーマンスによって構成される。ISSAの母親は独裁政権下で政治犯として牢屋に入れられていた。すぐには信じられないことだが、彼女はISSAをそこで産んだ。

彼女のプライベートな歴史とフィリピンの歴史が重なる。わたしはその鮮やかさに対して少し羨ましく思った。



わたしは劇団くロひげ(Kurohige)のメンバーをフライングハウスに連れていった(彼女らは横浜から来た)。今夜も賑わっている。特にわたしはNessと一緒に話した。彼女はしっかりしているように見える。でも実はサラよりもさらに1歳若い。きっと将来的に、彼女は有能なドラマトゥルクになるだろう……。

今夜は、Rikiのフィリピン滞在の最後の夜だ。わたしもここに6ヶ月いたかのように錯覚した。人間はおそらく記憶を交換できる。強い好奇心があれば。
 
 
 
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